6.社会の換羽

 経済紙を見ていると、このところのコンピュ-タ-業界の動向は奇妙だ。  
 業界全体は加速的に発展しているのに一部の有力企業の成績が突然落ちたり名さえ知らなかった会社が突然躍り出たりするなど、何かゆらぎのような現象が見える。  
 科学技術が指数的に変化しているという事を現実の社会現象で見たければ、先ずコンピュ-タ-の世界を見るのがよいだろう。ハ-ドとしてのコンピュ-タ-は設計・素材・素材加工・製作・応用のあらゆる段階で技術のコンビネ-ション・マルチ・ハイブリッドの複合科学技術の典型であり、その性能・能力は典型的に指数的な進化を続けている。そしてその組合せ技術としてのソフトも指数的に発展し、ハ-ド・ソフトの技術が相互に効き合ってコンピュ-タ-の世界は一層指数的な進化を遂げつつある。そしてこのコンピュ-タ-技術の指数的発展が、他の科学技術の指数的発展に影響しているのは言うまでもない。  
 自然界の中ではこのような指数カ-ブを創り出した者は自ら滅びてきたが、人間社会ではどういう事になるだろう。現代社会で指数変化の先端を走るコンピュ-タ-の業界を見ていれば、それを占う事ができそうだ。自らが創り出し、日に日に加速し、止まる事ができない競争に、どこまで耐えられるかを眺めていればやがては分かるだろう。このところの業界のゆらぎのような現象が、私にはそんな何かのはしりのように思えてならない。  
 だが本当に心配すべきは、社会的に見ればそんな部分の事ではなく、人類社会全体の指数的変化である。例えば地球表面積一定という制限条件の下で、人口や人類の資源消費量などの究極のパラメ-タ-が指数的増加傾向を呈している事である。地球表面の限界点に急速に近づきつつある人類も、自らが創り出した指数カ-ブに自ら滅びるのであろうか。  
  
 その自滅型症候群は現代社会のもう一つの特色、「多様化」という特性を通しても見えている。人類社会のあらゆる機能・活動は多様化と伴に複雑化という側面が急速に進んでいる。即ち社会機能が専門分化し、更にマルチ化ハイブリッド化が進む中で多様性と複雑性は同時に進んだようだ。しかも、その複雑化した社会のシステムは高度に有機的に結合し相互に依存の関係を持ちながら、いっそう複雑化の方向に進んでいる。勿論それも指数的な速さで・・・である。現代文明は、専門分化が進みそれぞれの分野が互いに相互依存の関係で結合された、高度に有機的な社会システムを目指して進んでいるようだ。この部分にこの文明の誤謬が潜んでいるように思える。先ず、専門分化が進み過ぎて個々の部分から全体が見えなくなった状況でも、指数的変化の環境の中でも、立ち止まりも出来ず進むので、ますます部分最適型の活動に偏ってゆく。部分最適の総和が全体の最適になる確認もないまま、人類社会は速度を上げて進んでいる点だ。  
  
 次の誤謬は、相互依存型の社会は意外に脆いという点である。現代で最も高密度に有機的なシステムが進んだ都市・ニュ-ヨ-クの都市機能は、ただ停電(電気が来ない)というだけでマヒしてしまう。無数の都市機能のうち送電というたった一つの機能が停まるだけで都市全体の機能が停まるという、相互依存型の有機システムの脆さの事例である。この種の可能性は無数にある。今後の社会環境の中では、複雑化した有機システム中の個々の機能がトラブルを起こす可能性は漸増してゆく筈だ。思い出しても欲しい、社会の多様化が進むという事は社会的バラツキが大きくなるという事で、今後の社会はチ-ム・ワ-クには向かない特性が大きくなるという事を意味する。  
 また社会環境が指数的に変化してゆく中でいずれ何処かの機能で、環境変化についてゆけぬ故のトラブルが漸増してゆく可能性も大きい。  
  
 勿論、このような誤謬は社会システムが大きい程、発生しやすい。即ち、小都市より大都市が、小組織より大組織(つまり行政機関や大企業)が、小型プロジェクトより大プロジェクトが現代文明・現代の社会システムの誤謬に影響されやすい構造であると言える。環境変化に対する小刻みの対応が遅れ、存亡を賭けての大改革を必要とするような状況が起きやすく、またその大改革もやりにくい。今、人類社会も換羽が必要だ。  
  
 社会の環境・シ-ズンが変わり、社会の換羽が必要になりそうだ。その換羽を担うのは「人」だ。特に社会環境の変化に適応するための改革を担う立場の人々、例えば社会・組織のトップや参謀的役割のスタッフが重要である。  
 ワシやタカが自然生態系で食物連鎖の頂点に在って系全体を見渡すような位置から、人間社会の系全体を見渡せる人材が必要だ。だがこれまでの人間社会の進展過程で育てられてきたのはいわゆるスペシャリストであり、社会の系全体を見渡せるジェネラリストは育ってはいない。人の育成も実は社会システムに規制されている。とりわけ日本人社会の群特性・密集群型社会特性の影響は大きいのではないかと思われる。つまり、人間そのものに対する思い込み・固定概念である。  
 例えば、一芸に秀でる者は多芸に通ずと思い込んで出来上がったスペシャリストは只の単能人間だったりする。専門技術の深さ・他分野の多様さ等、現代の社会環境がそうはさせなかったのかも知れない。一方・スペシャリスト側にも時には思い違いがあって、前提だらけの壁の中の専門分野でもそこを極めたら世界を知り尽くしたような錯覚を持つ。日本人は壁の内側だったら自信を持って何でもする。かくして専門分野・部分だけを見て突っ走る。現代型の複合社会なり科学技術なりを総合的に取り扱う学問や技術もなく、また人間社会もジェネラリストを要求してはこなかったこんな時代で、多芸をこなせる人間は元々種類が違う人間であるという事にも日本人社会は気がつかない。  
 また教育に対する伝統的な観念にも課題が出てきたようだ。もっともここで問題にしているのは社会の舵取りを担うスタッフ的な人材の育成・運用であり、社会のライン的部分に関してはバラツキが小さい画一的な日本人の社会特性は今後も幸いするであろう。  
 教育面での社会変化に対する歪みは先ず、学歴に対する画一的観念に現れそうだ。かって社会に知識の蓄積が無かった時代、高等教育の普及つまり知識の普及は確実に社会の力になった。例えば大学での四年間の教育も社会の環境にさほど変化が無くまた大学教育の普及や社会のマス・メディアを通しての知識の普及のチャンスが少なかった時代は、その教育を受けた人々は社会の舵取りの役割をそれなりには果してきた。だが人間社会のあらゆる現象が指数的に変化し多様化を始めた時点から事情は変わってしまった。つまり、過去の知識・知見だけでは社会の舵取りの役に立たなくなってきた。大学をを出て15年20年も経てば世の中の事情は一変している。ず-っと昔の知識や経験・学歴などは実のところ何の役にもたたない。ゲ-ムもパズルよりクイズが受けるように、日本人の社会では伝統的に「思考」より「知識」が重要視されてきたようだ。しぜん教育も思考力の訓練より知識習得型が中心であったように思われる。現代のような社会環境下で社会の舵取りをする立場に在る人には、過去や現在の知識より、時々刻々推移する「環境変化を認知」し、その変化の意義や本質を考え変化への対応を創案する「考える力」が必要である筈だ。今後の課題に対する解答は、過去や現在の知識の中にはない。  
  
 社会環境に変化も多様性もなかった時代、人は年を重ねる程に・知識や経験を重ねる程に社会における価値を高める事が出来た。社会の舵取り役にも、重ねた年齢が役立った筈だ。かって長老は社会にとって大切だった。だから社会から大切にされた。だが指数的変化の時代では、単なる知識や経験の積み重ねだけでは何の役にもたつまい。私達がその年齢になる頃に、大切にされたかったら単なる知識ではなく思考を重ねて生きてゆく事ではなかろうか。社会の前提条件が激しく変化し続ける環境の中では、思考の力がないところにいかに最新の知識や情報を十分に与えても、明日についてなんらの正しい判断も期待できない筈だ。今や専門知識も専門技能も、ある時期だけ有効な一過性なものになってしまった。  
  
 今後の人間社会を健全に運営してゆくためには、人間社会の行く先を遠くまで、また広い範囲を見通せる舵取り役を育てる事が大切だ。そのためには学校や社会における人の教育・育成については画一的に行うのではなく、今の特殊な時代環境に於ける社会・組織のトップや参謀的スタッフ、すなわち社会の舵取り役の教育・育成を意図したプログラムが必要かもしれない。社会の多様性が増し人のバラツキが増大する中でも、教育も社会における人の権利と義務も画一的に考えるのが平等の原則、ひいては民主主義だと思う人達もいるかもしれない。だがこの社会、そうしている間も社会自体が波間に沈んでいるようだ。社会が無くなれば民主主義も平等もありはしない。  
  
 さらに今後の社会では人の運用も画一的に考えず、フレキシブルにダイナミックになすべきだろう。社会環境の多様化も進むが、人間の多様性・バラツキも大きくなってゆく。40才で実質老人もいれば、70才で青年もいるであろう。そんな中で人の運用の制度や習慣が画一的・固定的であれば、社会の機能を健全に保つのはむずかしい。例えば、ず-っと過去の学歴や、杓子条規の定年制や年功序列の観念等は、すでに本質的な意味を失っている。人間そのものに対する伝統的な思い込みや固定概念を改めなければならない時代環境に来ているのである。  
  
 私達の人間社会は、どんな理想の・どんな至福の社会を目指しても、人に顔の違いがあるように価値観や人生観の違いがあって、どんな社会の中にも欲深い人・悪い人・汚い人はいるものだ。いわゆる人種という意味ではなくて、身の周りの人々の中において「人間には種類がある」と思っている。犬にもスピッツとシェパ-ドに性格や行動に違いがあるように、また同じスピッツでも生まれや育ちで犬種を越えた違いが生じるように、人間も生まれや育ちで明らかに種類以上の違いが生じている。その違いを定量的に測定することさえ出来ると考えている。例えば大人になっても欲の深い人・悪い人の性格はよほどの事がなければ変わらない。元来、人間も他の動物も、あらゆる生物は利己的な存在らしい。だが、自然の中ではその利己的な行動も環境系に対する権利と義務の義妙なバランスの上で成り立ってきた。  
 現在の人間がその環境系としての地球のバランスを壊しつつあるのは、人間の行動に権利と義務のバランスを欠いているからではなかろうか。もっとも人間自身が環境系を指数的に変化させつつあるのでバランス感さえ分かりはしないが・・・・・・。少なくとも人の思考の論理でつけられるケジメ程度はバラ色曖昧のまま残すべきではなかろう。例えば、現代人が好きな人権という言葉の意味も、少なくとも大人になった後は権利と義務の重さが同じという条件で人権は平等だと考えるのは行き過ぎだろうか?地球上の生物の中で人間だけが特別の権利を誰も同じように持っていると考えるところから矛盾が始まっているような気がする。どんな人間にも可能性に対しては差別をすべきではないが、少なくとも大人になった後は違いによる区別位は明確になすべきだと言えば誤解を招くだろうか?とりわけ日本人社会の群特性の中ではこんな意見を明言すべきではない、と忠告してくれる友人もいる。  
 だが、それも現代日本人の平均的視野が基での価値観であって、その事自体がこの世代の利己的な認識と価値観かも知れない。多分、次の世代では現世代の私達が残した価値観の歪みで人々は苦しむ筈だ。  
  
 自分達周辺に限れば、善はいくらでも成す事はできる。だがそんな部分だけの善が、人類社会全体や次の世代さらなる将来の悪弊に繋がるところが基本的な課題なのである。そんな部分の最適解が全体の最適解にならない事が分かっていても、それをやる人はいるし現在の倫理を基にそれをやらせる人もいる。  
 このままでは人類は部分最適解のパラドックスの中で混乱の奈落に陥り、地球ぐるみ台無しにしてしまうぞ、という類の問題提起はすでに世の中にはゴマンと在る。だがそんな問題提起だけをいつまでもし続ける時間はすでにないのではなかろうか?人類の活動を全体的に捉え、それが地球系に与える影響や将来の予測など、人類の行動を基本的に見直す科学も技術もまだ無い。世にビッグ・サイエンスと呼ばれる人類の夢を担う巨大科学技術のプロジェクトは在っても、現代人類の営みの健全度を確かめるビッグ・サイエンスはない。この事自体がヒト科動物の問題性を表している。心や意識や欲望といった人間の特性を制御する事は現代の文明下では困難であるかも知れない。こうなればこの文明の行き着くところまで行き着かせるしかない・・・・という事かも知れない。  
  
 だがこの時代に偶然生まれ合わせた者の一人として成り行き任せの生き方は、どうにも堪らない。自分のこんな意識も私の中の遺伝因子のヒト科社会への働きかけとして、私にこういう思いをさせているのかも知れない。とすると、他に誰か同じ思いや考えを持っている人もいるかも知れない。  
 そんな人達が集まって小さなプロジェクトからでもいい、具体的な行動をとるべき時期にあるようだ。その小さなプロジェクトの隙間から人類全体の
今後の姿が演繹的に見えるような事を始めたいと考える。それは人類の持続的な成長を期待するより人類および地球系が健全に存在し続けるためのものであり、人々が常により豊かになり続ける社会より人々が何時までも豊かのままでい続けられる社会を模索するものであり、儲ける経営より健全に存続し続けられる経営を目指したプロジェクトである。  
 日本での例ならば、「250年間存続可能な都市計画」でもよい。このプロジェクトの推進を通じて社会の諸システムの改革の方向が理解できるよ
うにする。技術構造の再設計、行政システムの再編成、企業構造の再設計など内部的な課題だけでなく、資源や経済や文化などにも関わるので国際規模・地球規模に課題を捉え解決の道を探す事もする。肥大化した人類社会の部分部分に潜むマモノを退治してゆくには、小さなモデル実験から始めるのがいい。  
  
 こんな試み・例え急激に変化しつつある社会環境への適応の為の研究だとしても変革や改革には必ず抵抗が生じる。そのためには正しい思考のロジック・論理が必要である。その思考のロジックさえ実は環境の推移とともに変化する。  
 戦略理論というのがある。経営理論や経済理論の間違いではその運用者を含めた人の生命に関わる事はあまりないが、戦争の理論は間違えば多くの人命ひいては民族の存亡にまでかかわるものだ。歴史上、戦略論を変えた幾つかの戦争があった。それは戦争に関わる環境が大きく変化した時期に当たるものである。当然、環境変化を認識できなかった側が負けるべくして負けた。  
 環境が変化する時、過去の理論は通用しなくなる。前提条件が全く変わってしまうからだ。戦略や戦術の理論は、兵器や技術、あるいは経済や社会科学上の要因などの環境条件の変化と共に、理論そのものが変化すべきものである。  
 先ず、その時点・時代で考慮すべき環境とは何か、という事が課題になるが、それはそれまでに変化が見られた要因である事が多い。そしてその環境変化、つまりその要因と変化の大きさを正しく認識して理論は構成される。  
 環境変化を正しく認識出来ない側は、正しい戦略の思考論理が構成できない。  
 いかに運用上の体力・実力が在ったとしても、その時代環境に合った正しい論理がなければ、運用される人々がムダ死にするだけだ。  
  
 そして自然界でも、長い自然の歴史の中で何度も大きな環境変化があった。  
 そんな中で「種」が生存してゆくには、環境推移の正しい認知が最初にある筈だ。それぞれの「種」がいかなる方法でそれを認知するかは知らないが、彼等が生存のために採った戦略も基本的には環境の認知の上にのっている。  
  
 自然界での「種」は環境の推移・変化の認知やそれに続く自己変化(適応)を自然の長い時間をかけて行うが、私達現代人の環境変化は急激に起こっている。だから急変用の環境変化に対するそれなりのロジックが必要だ。環境変化の方向や大きさが認知できたら、次に、変化に対する適応の方法をあらゆる方向から創案するロジック、当然その中には複雑に絡み合いながら多様化が進む全体系と個々の部分系が関係づけられているようなロジックが必要だ。そして、そんなあらゆる可能性の中から明日の環境変化の予測に合うものを選択し、大急ぎで自己変革してゆくロジックなどが必要だ。  
  
 実は、そんなロジックをこれまで研究し密かに各種の分野で試してきた。それなりになんとか使える自信はある。私も本職はコンサルタント稼業だと思っている。だからそのうち、「生態学的療法による社会や会社の病気の治し方」という本でも出してみようかと本気で考えているくらいだ。環境変化の大きさと速度をどう「認知」し、その中で自らをどう「適応」させてゆくかという知恵は、自然史や生きた生態のダイナミズムの中に在る。急激な環境変化に追随できない団体や会社、そんな時代変化に淘汰されたくないと思う人達が意外に沢山いて、買ってくれるかも知れない。  
  
 とにかく環境変化の時代には何か新たな思考のロジックは必要であろう。  
 新たな思考のロジック・・・そして今、それに基づいた哲学が必要な時代なのかも知れない。現在、哲学は理論物理学か数学にしかないように思える。  
 今、最も必要なのは社会科学における哲学ではななろうか?社会哲学者達、彼らは一体何処に行ったのだろう。  
 今、人間社会も換羽しなければならないようだ。肥大化した社会システムは目的達成のための効率が悪い。すでに効率が悪くなった既存のシステムよりも、小回りがきくシャ-プなシステムでなければ間に合うまい。変化が速すぎる。時間もあまり無いようだ。