7.ドラゴンクエスト

 勇者・賢者・僧侶・武闘家・商人・遊び人等からなる一行が、砂漠のかなたに向かってアリアハ-ンを旅立って行く。人類滅亡を企てるマモノの帝国に立ち向かう小さいが人類の全未来を担ったミッションである。  
 「ドラゴン・クエスト」ファミコン・ゲ-ムから始まって今やコミックスからTVアニメまで幅広く子供たちの人気を呼んでいるようだ。あまりに子供達に人気が有り過ぎて社会問題になっているところもあるらしい。ロ-マの我が家でも、二人の子供達がファミコン・ソフト、TVアニメ・ビデオ、コミックスと全てを日本から取り寄せている。それを実は父親である私も側から熱心に見ている訳で、その事を申しひらきするつもりではないが、例え大人が批判的でも子供達に人気があるコミックスやアニメには、何かそれなりの真理がある・・・・というような印象を以前から持っていた。一昔前、「ハレンチ学園」というのがあった。世間の問題になったが、今から思い返してみれば次の時代を象徴する何ものかが描かれていたようだ。子供達は、本能的にそんなものに反応しているのかも知れない。  
  
 この「ドラゴン・クエスト」で勇者の一行が闘う相手はマモノである。このマモノ、冷酷無比なのがいればカワイラシイのもいる。さて現在の我々人類社会の本当のマモノは何であろうか?我々の世界は今、科学も技術も政治も経済も複雑になり過ぎて、何を見ても分からなくなってきた。今後も人間社会、ますます分からなくなるらしい。我々自身の全体像が見えなくなってゆく。こうして自分自身の姿が見れないまま限りなく膨らんでゆく我々の前途にマモノはいるらしい。  
 人間の繁栄も地球表面が一定であるという上限が見えてくると、次第にマモノの正体もぼんやりと見えてきたような気がする。現在の先進国の生命倫理や人道主義も科学技術も、それらが例え愛に基づいたものであっても今後もバラバラに走り続ける限り、それがマモノに成長するようだ。全ての人類が繁栄するためのどんな慈愛に満ちた活動も、個別に見ればカッコよく振る舞うことが出来たとしても、全体をまとめた姿を見るとだんだん辻褄が合わなくなってきた。すでに地球生態的な視点から見れば、あるいは超時間的に見れば、我々のそんな営みはすでにマモノのカタチをしているのかも知れない。個別に見ればカワイラシイ姿をしていても、まとめて見れば冷酷無比のパワ-を誇る巨大なマモノの姿が見える。どうやらマモノは我々自身の内にいるらしい。  
  
 全体として見る限り、今や人間の世界は衆愚である。どうやら、我々の民主主義も博愛主義も人権主義も失敗するようだ。今の人間社会を構成する人は、誰も全体が見れないのだ。こんな中でマモノ退治に、大衆(人類)全体のコンセンサスを得るのは無理かも知れない。  
  
 マモノが大きくなり過ぎる前に、我々はマモノ退治のミッションを出さねばならない。それは大衆から選ばれた人達ではなく、意思ある人達からなるミッションになる筈だ。というのも大衆にはもう、その人達を選ぶ必要性の判断も選ぶ力もないはずだ。ドラゴン・クエストのスタッフを借りると、キ
ャストはとりあえず次のようなものになろう。  
  
 「勇者」は理想的には世界中の政・財・官の中の正義と勇気を持つ人達だろう。あるいは、どこかの力ある一個人かも知れない。彼なり彼女なりは、勇気と力でもってこのミッションを創設し、先頭を歩き始める人である。  
 「賢者」は視野広く、高い視点を持つ科学者や技術者あるいは深い思想と知恵を有する人達から成ろう。今すでに地球環境について問題を提起する人はゴマンといる。このミッションの賢者達は問題提起を繰り返すのではなく、先ずマモノ退治の具体的方法論を策定する筈だ。  
  
 「僧侶」は人間の心の問題を取り扱う人達、生身の人間を理解できる人達である。多分、心理学者や医学・人間工学等の分野からの人達あるいは、心ある宗教家や、日本では日本人のカウンセラ-:どこかのクラブのママさんも専門家として迎えられるかも知れない。  
 「商人」は経済学者、諸産業・食糧の生産や、資源の再生産・流通などを考える経営者や技術者達が含まれるだろう。  
 「武闘家」は現実に人類が手にしている軍事技術をどのように取り扱ってゆくかの戦略を考え、長視点的に見て「ヒト科」という「種」と地球を健全
に防衛するための戦略・戦術を担当する軍人か軍事技術者も必要かも知れない。理想的には武力を考慮しない方が望ましかろうが現実的には、自然界がそうであるように武力の存在には重要な意味がありそうだ。  
 「遊び人」表現は悪いが、人間の最も大切な部分を取り扱う集団である。  
 文化や人間が人間として生きてゆく歓びを設計し、ミッションの目的を円滑に達成させるための重要な役割を果たす。キャストは文化や芸術の専門家や人類の夢の設計者などになりそうだ。限りない人類の好奇心は宇宙から歴史あるいは古生物学と限りなくある。夢とロマンを与える科学や技術の専門家達も加わってくれる筈だ。  
 20世紀も最後の10年代になるとなにやら騒がしい。歴史を振り返ると100年前の世紀末にも騒ぎがあったらしい。また世の中に戦乱や何らかの混乱があると末法思想や終末論がはやるらしい。人々は何か不安の影を感じるようだ。それは、子供達が次の時代を暗示したコミックスを本能的に選択するような、あるいは大繁殖したネズミが大移動を始める前のような、何かしら漠とした環境的な背景への反応かもしれない。  
  
 この世紀末はあらゆる条件がそろっているので騒ぎも一段と賑やかになるかもしれない。先ずこのところ話題のノストラダムスの「1999年7の月」の予言というのがある。あたかも地球終焉論である。次に、ヨハネの聖書の「啓示」のハルマゲドンが近い内に起こるという説があるようだ。ハルマゲドン、つまり全能者としての神がサタンと人類の諸悪を葬るための大戦争がもうじき来る事を真剣に信じている宗派もある。  
 一方、人類社会や地球環境の実状から指摘される危機も奇妙に、これらの宗教上の危機説とタイミングが一致する。地球の環境汚染はこのところ放射能汚染、海洋汚染、大気汚染、土壌汚染等々、あらゆる汚染が急激に世界中に広がっている。中でもCO2による地球温暖化とフロン・ガス拡散によるオゾン・ホ-ルの拡大等は致命的な課題に発展するかも知れない。そして、指数的な人工増加と資源消費の増大がこのまま続けば、地球系そのものの安全性を決定的に脅かす事は明確である。  
  
 木村由実子が企画した現代神話’LaFantagiadiRapaci’の神話の展開が、はからずもそのような状況と一致した事に驚きを感じている。すなわち人間の諸活動のうち増長し過ぎる部分をマモノとみなし、それを創り出す人間と人間社会の本質的部分に一挙に迫る事で、マモノを一定の領域に閉じ込める。つまり2000年を機に、現在の人類が利用する地球表面積と資源を一定の範囲にとどめるという考えである。   
  
 いつどのようにして、このミッションは編成され出発するのかまだ分からない。だが、木村由実子と私の共作コラ-ジュ写真展’LaFantagiadiRapaci’の会場では、まだ小さいが同じ考えを持つ人達のサロンが出来、会話は始まった。  
 日本人、イタリア人だけでなくドイツ人もフランス人もイギリス人もスペイン人もやって来た。いつの日にか本当にマモノ退治のミッションがここから出発できればよいが・・・・。