ロ-マの冬の夕空、大都市でありながら限りなく澄んだ淡いブル-。それが少しずつ青紫から赤紫へと色調を変えてゆく。なぜかここでは日本の様な橙色やその延長上の真っ赤な夕焼け空をめったに見ない。微妙に変化してゆくロ-マの夕空には、下界の喧騒とは関係ない静けさがある。
そんな時刻、テルミニ駅前広場や共和国広場あたりに佇んで見上げると、不思議なフラクタル・パタ-ンが大空をおおっている。限りなく澄んだ夕空に浮かぶ巨大で真っ黒な立体造形が、ゆっくりではあるがダイナミックに変形し推移してゆく情景はこの世のものとは思われないような印象を与える。
ホシムクドリの大集団である。
最初にこの巨大に密集したホシムクドリの塊を見た時、私は正直度肝を抜かした。これまでにムクドリの大群を含め、沢山の野鳥の群を私は見てきたつもりではある。だがこれ程までに高密度に凝縮した大きな群は見たことがない。群の個体数は少なくとも数万はいる。
それがゆっくりとうごめく様は、折しも夕空にシルエットで見えてることもあって、あたかも中空に浮かんだ巨岩の浮島か何か異空からの物体のようでもあった。
夏の間、ヨ-ロッパ各地で繁殖したホシムクドリは冬の期間、地中海沿岸に渡って来て越冬する。
昼も夜も彼等は大きな群をなし、夜のねぐらに何故か明るい街中の街路樹を選ぶ。夕暮れ、その街路樹のねぐらに入る前の一時、空中をたゆといねぐら入りの態勢を整えているようだ。
鳥に限らず動物が形成する群というカタチの意味は、「種」により生活サイクルにより厳密にはイロイロあるようだ。一般的には捕食者(敵)や棲息条件に対して弱い立場や状況に在る場合に群は形成される。単純に言えば「弱いヤツラが群れる」のである。
夏の磯場で水中メガネをかけて海中を覗くと、そこにはびっしりと凝縮した稚魚の群がみられる。その群の周辺には彼等を捕食する天敵が潜んでいるに違いない。
群型の動物は一個体としてはいかにも弱々しい草食魚の稚魚やムクドリに限る必要はない。大草原に生きる大型の草食獣、バイソンやヌ-も群れる。一個体として見ても非常に大型で体躯も隆々と逞しく鋭い角で武装されてはいてもよく群れる。彼等とて一個体でいれば自分より体躯が小さい肉食獣に襲われやすい。身を守るには集団の方が確実だ。
逆の立場で、大型草食獣を襲う小型の肉食獣も一個体では太刀打ちできないので群れで襲う。防衛と攻撃の違いはあるがいずれも集団で行動することで効率的に目的を達成できる。
とにかく群という単位でいることで、敵から身を守るにも自分より大きな獲物を襲うにもあるいは季節的な移動「渡り」のような大事業を行うにも、行動の効率を高め危険を分散することができるのである。
問題はその「群」の密度、つまり凝縮度である。どうやら生存のリスクが大きいほど群の凝縮度は高いようである。磯場で高密度に群れていた稚魚も時折、海草の陰から少し大きめの魚に襲われていたようだし、ロ-マのホシムクドリの群もハヤブサやチョウゲンボウに襲われているのが見られる。
こうなると磯場の稚魚やムクドリ達が群れたい気持ちもよく分かる。それも少しでも群の中心部にいたい。思い出してもみよう、子供の頃に子供達だけで真っ暗な夜の田舎の山道を歩いた時の事を。
皆、肩を寄せ合ってびっしりとかたまったはずだ。それもできるだけ集団の中心にいたいと思った。
要は、弱いヤツラというより「肝が細いヤツラはかたまる」と言うことなのかも知れない。
地上から見れば塊状に見えるホシムクドリの群も目をこらしてよく見れば一羽一羽のツブツブが見てとれる。双眼鏡を覗いて見れば、一羽一羽の動きもよく分かる。
群れのどの位置にいようと、どの鳥も群の中心へ中心へと必死に向かっている。群から、流れの本流から外れる事が不安のようだ。群全体の動きや流れは、そんな個体の個々の動きと関係なく、また法則性もなさそうだ。群にリ-ダ-が存在する様でもなく、集団の意思を反映するためのル-ルがある訳でもなく、ただなんとなくその時々の雰囲気や環境の推移に反応しているようでもある。
空中の塊は、ゆるやかに散開し、集合し、方向を変えながら群全体のカタチを変形・推移させてゆく。ある時は伸縮するゴムまりの様に、またある時は、空中に浮かんだ砂の楼閣がサラサラと端の方から流れ落ちてゆくかの様に群のカタチが変形してゆく。一旦、大きく膨らんだ群が急にググ-ッと密集・集合し真っ黒な一つの塊に見える瞬間には、とりわけその塊に夕陽があたったていたりすると何かゾ-ッとする恐ろしさ、不気味さがある。
中身は小さな一羽一羽の小鳥でもそれが集合した時の群のカタチには何か全く異質な特性が感じられる。ホシムクドリの巨大な群が指し示すパタ-ンや動きは何か深い意味合いを感じさせて止まない。