2.ムクドリと日本人

 私は時々 LIPU (イタリアの野鳥の会)のあるグル-プと一緒にアルプス方面の山々でゴ-ルデン・イ-グルの調査や撮影に行っている。その中にマッシモという生真面目な少年がいる。彼はまだ高校生だが典型的な北のイタリア人らしく初めの頃、私に対して何かはにかみのような態度を示していた。何度か行動を共にするうちに彼もこの日本人に慣れてきたらしく、いろんな事を話しかけてくるようになった。  
 その彼がある時、こんな事を言った。  
  
「 Mr.オカモト!こんな事を言えば失礼なこととは思いますが僕は貴方と知り合うまでは、日本人は皆同じような顔をして皆いつも同じような行動をするのだという印象を、子供の頃から持っていました。」   
「ほほう、それはどうして?」私は平静に訊ねてみた。  
  
「僕はミラノの近くに住んでいるのです。だから昔から日本人はよく見てきました。だけど何故か僕には日本人、特に大人の男の人は服装も持っている鞄も歩き方まで皆おなじに見えるのです。そして顔まで皆同じに見えるのです。そして僕はその事は特別なことではなく日本人は皆そんなものだと思っていたのです。」  
  
「ウウウ・・なんてことを!少年マッシモよ。君、トテモ刺激的な事、言うじゃないか!」  
  
 つまり、私と知り合って日本人の顔にも違いがあることを知り、その違いを見分けられるようになったという事らしい。あたかも、犬には興味が無くスピッツはどれも皆同じ顔だと思っていた人が、何かの都合でスピッツの世話を自分がするようになり、自分のスピッツとよその家のスピッツを比べてみて初めて、「ああスピッツの顔つきにも違いがあったのネ」という事に気づいたと言っているようなものである。  
 だとすると私は全日本人・日本民族の名誉のために極めて偉大な役割を果たしたことになる。つまり、日本人も自分達同様に一人一人は皆違うという事を一人の少年に気づかせることが出来たのである。  
  
 とはいえ一人の清廉潔白なイタリア少年をして日本人はみな同じ姿形と思い込ませてきたモノは一体何であろうか。もしかして当方・日本人の側にもそれ相応の要因なり理由なりがあるやも知れぬ。  
  
 動物分類学という学問がある。動物がもついろいろな属性・特性を比較しながら、これは同じ仲間、これは違う仲間と分類し例の「目」とか「科」とか「種」とかを決めてゆく学問である。この方法では最終に違いが認められない者どうしは同じ「種」ということになる。とはいえどんな「種」にもそれを越えた個体差つまり個性のようなもの、例えば外観的な違い・性格的な違いがあり、これが同じスピッツ種であっても自分の犬とよその犬とを見分けられる所以である。  
 この個体差の発現傾向は高等動物ほど顕著であるように思われる。だから人間(ヒト科)の場合、同じ「種」(人種)であっても、私達人間同志で見られるような個体差があるわけだ。もっともアリはアリどうしで人間どうしと同じような個体差を認め合っているかも知れないが・・・・・。  
  
 さて本論に戻って、少年マッシモが我々日本人を見る時その個体差・個人差を見出せなっかたのは何故か?という事を考えてみる。できるだけ正しい思考を辿れるように動物分類学と同じような方法で考えてみよう。勿論、対象が人間であり日本人の事でもあり自らに敬意を表する意味で、比較項目に
文化的・精神的ファクタ-も加えることにしよう。