3.回教圏の反乱

 この外国人のためのイタリア語集中講座は、正味二ヵ月間でイタリア語をしゃべれるようになる事が目標である。だがクラスの50人は、いろいろな言語圏から集まっているし事前のイタリア語会話能力のレベルもまちまちだ。  
 一日6時間の授業の進め方は、可能な限りフリ-・ト-キングの形式だ。だが、50人の生徒にビアンカが一人一人対応するのは当然、無理だ。自然にクラスの右前方に陣取ったサミット組の一団に集中的に話しかけるようになる。実はこの一団、ビアンカにとっても話題が楽しいのだ。だが誰もが語学
をマスタ-する事に対しては真剣な中で、この動きに対する他の人達からのリアクションのような雰囲気を感じ始めた。とりわけ中近東やトルコ等回教圏から来た人達の中にそれがあった。  
  
 人間が集まれば、立場や利害が共通する者どうし・類似のタイプの人間どうしが群を形成するのは、どんな社会でも同じだ。ただ私達の群形成がすばやかったのは多分、英語という共通の意思伝達手段と互いに興味と魅力を感じあえた事が理由だろう。それまで気づかなかったが、多分同様な理由で回教圏からの人達の群形成もすばやかったようだ。言語や価値観、それにここでの生活などで立場が共通するところも多いのだろう。  
 新しい環境に適応する過程では、このような群(コミュニティ)の形成は情報やノウ・ハウの交流の上で極めて重要だ。その場合、互いの立場は類似しているほうが互いに便利という事であろう。  
  
 さてビアンカの授業に対する回教圏のグル-プの人達の反応は他の地域、例えば中南米、東南アジア、東欧、アフリカからの人達のそれとは全く違う一種独特のものがある。偶然そのタイプの人が集まっているのかもしれないが・・・。  
 私達も彼等との接触を全く拒んでいるわけでもないし、彼等を疎外している訳でも対立する意識もない。折角の機会だから私も彼等を通じて、世界について多くを知りたい。だから言葉が通じる限り、時には彼等の輪に入ってみたりした。だが話題や会話がいつもチグハグになるのは言葉のせいだけで
はなさそうだ。  
 授業がオマエ達が中心に進められているようなトコロが気に入らない・・・・と彼等は言う。「それじゃ君達も早く授業に来て、一番前の席に座れ」と言ってやると、前はイヤだと言う。だったら後ろからでも会話にもっと参加するなり、大声で発言するなりしろ!それでもダメならビアンカに直接言うなり大学事務局にでも注文つけろ!と言ってやった。もともと授業の進め方について生徒の我々に言われたって・・・としか私達も言えない。  
  
 本来、私達は何も不自由は感じていないが、語学のクラスに50名は多すぎる。この件についてマ-クと私は、ビアンカと相談して事務局に交渉に行った。イタリアは寛大な国だ。文化のストックも大きい。この講座も国がコストを無視して外国人に開放しているようなものだ。それから1週間後、会話に関しては少人数のクラスに再編成してくれた。  
 その結果、ビアンカはサミット組と若干の他の人達を選んだ。スイスのバ-ゼルから来ている女性教師、ポ-ランドとユ-ゴスラビアの神父、アルジェの上流家庭のお嬢様二人・・・である。ビアンカに選ばれなかった人達には別の二人の講師がそれぞれついた。60才は過ぎているオジイさんと笑顔など一生に一度も見せる事もなさそうな中年の女性の講師である。彼等がこの状況をどのように受け止めたかは、生徒の私達の知る限りではない。  
  
 イタリア語以外一切使わないが、ビアンカの語学教育は抜群である。私のように最初の間、ほとんど理解できなかった者もいつの間にか不思議にイタリア語が分かり喋れるようになっている。とりわけ少人数になってから、一人一人の個性・能力・話題を巧みに引き出しては会話の中に引き入れてゆく。
  
 誰もが、興味を持つ会話の中でポイント・ポイントを教え込んでいる。会話も文法も全てビアンカである。時に3時間連続で授業をやる文字通りの集中講義がある。だが時間はアッという間に過ぎてゆく。
  
 時にビアンカは大きな声をだす、皆に歌をうたわせる、ヒラリと机の上に跳び上がり大きく足を組んでウフフ・・と笑って見せたりする。かなりアブナイ姿勢であるが極めて優雅である。このシ-ン、映画の中のようである。  
 夏である。窓の外ではセミの声が聞こえる。木立を通してかなたの山の辺りに入道雲が湧き上がっているのが見える。  
  
 PLOから来ているアフィという名の娘がいた。週末、私達が例のごとくパ-ティの準備の話をしているところに彼女がオズオズと割り込んできて、私にちょっと話を聞いてくれという。彼女は辺り気にしながら小声で話す。  
 彼女はホテル・マネジメントの勉強のためにイタリアに来ているという。  
 国に戻ればいろいろな国からくる客に対応しなければならない。だから私達のパ-ティに一度入れて欲しい。自分は回教徒だけど一度はワインもビ-ルもプロシュ-ト(豚肉の生ハム)も試しておきたいと言う。  
 勿論、私達としては’Noproblem&Welcome!’である。「友達も誘っておいでよ」と言うと、本当にうれしそうな顔をした。だが当日になって彼女はさびしそうに、来れないと断ってきた。どうやら彼女のグル-プがブレ-キをかけたらしい。  
 彼女のグル-プの中心格にアブダラと言う30才前後と思われる男がいた。  
 私がいつも、’ヤァ-’と挨拶してもちょっと目礼する程度の挨拶しか返ってこない。笑顔を見たこともないし、仲間と活発に話しているところを見たこともない。いつも黙って何かを考えているような表情をしているが、彼がグル-プの中心的存在であることはすぐに分かる。ある日、彼が突然帰国する事になった。その彼がなぜか、私に挨拶に来た。急な帰国の理由を聞く私に、「実は、自分の兄が急死したので、後を継がねばならないのだ」と日頃よりもっと硬い表情で答えた。後で、彼の兄はPLOのどこかのセクトのリ-ダ-で、テロに遇って死んだのだと他の人に聞かされた。  
 かの地の事など遠い世界の出来事と思っていたが、すぐ側で戦争があっているような気がした。日本も昔、そんな時代があった。若者達が戦場で、そして戦士でない女も子供も死んでいった時代があった。  
 人生、半分は運だ。たまたま私はこの時代の日本人として生まれ・生きてきたが、少し時代が違えば、あるいは少し生まれた場所が違えば彼等と同じだったろう。彼等が今、住んでいる世界はそんな所である。  
 アブダラが帰国した後、このリダ-不在のグル-プは荒れ始めたようだ。ときたま合同授業があると授業中に騒いだりする者もいる。これでは日本の出来の悪い中学のクラスと同じだ。よしてくれよ!オレ達、大人だろ!  
  
 それから数日後のある朝、ラルフが青あざだらけの顔でやって来た。私は驚いて尋ねた。「どうしたラルフ?」「イヤァ-、昨夜単車で転んでブドウ畑に落ちたちゃってネ-・・・」その話し方が面白かったので、私もモニカも大笑いした。ただマ-クでけは、怪訝な表情で彼の顔をのぞき込んでいた。  
 この事件の真相は夏が終わり、私がペル-ジアを去る前夜に知った。その頃にまでには、私が住むパラッツオの住人ともすっかり家族的な雰囲気が出来上がっていた。その中にトルコからペル-ジア大学に2年間留学に来ているファットマという名の若い女性のエンジニアがいた。  
  
 ファットマが言うには、あの夜ラルフはバ-ルでほかのドイツ人の友達とビ-ルを飲んでいた。そこにかのグル-プがやってきた。アブダラが帰った後、自称トルコ航空のパイロットでケマルという25~6才の男がクランを率いているらしい。トルコ人は回教徒ではあるが一般には酒も飲む、アブダラがいなくなってグル-プは彼のもとで酒の味を覚えたらしい。  
 ケマルはラルフに挨拶をして最初は別々に飲んでいたらしいが、そのうちケマルが私の事でラルフに口論をしかけたらしい。何故か私がサミット組のボスと思っているらしく、その私が回教組を攪乱しているとか、ビアンカのえこひいきを得ているとか・・・と言うような事を言ったようだ。冗談じゃない、どこぞの国の出来の悪い中学生ではあるまいし・・・。  
 それぞれの国では社会的には立派な立場にある者でも、こんな隔離された世界で学生に戻れば精神状態もそんな雰囲気になるらしい。だからラルフも友人への中傷を聞いて黙っておれなくなった。口論は二つのグル-プ全体に及びやがて双方入り乱れての大喧嘩になった。バ-ルのテ-ブルはひっくり返るやら椅子が飛ぶやらの大乱闘になり、果てはパトカ-が来るハメになった。幸い双方とも逃げおおせたらしい。  
 いかにもラルフらしいエピソ-ドである。彼は私が原因の喧嘩をやったなどとは最後まで一言もいわなかった。後にファットマがケマルに聞いた話を私が伝え聞かなければ私もこの一件を知らずに終わっただろう。  
  
 ラルフはインテリである。ラルフとマ-クはそれなりに自分の哲学を模索しているようだ。かつて日本でも、青年達がそうであった時代があった。  
 彼等は互いの人生観について語りたがり、また東洋の思想についても聞きたがった。だから私も度々、彼等の議論に加わらねばならなかった。回教圏の連中が来ない、ペル-ジアの高台にある静かな屋外バ-ルで、日暮れ頃から真夜中まで、ビ-ルを飲みながら議論を続けた。星がすぐ近くに見えた。