2.クラスメート

 ビアンカのクラスの仲間達は実に愛すべき連中だった。  
  
 先ずアメリカ合衆国からは、コンスタンスとフランクの二人である。コンスタンスはブロ-ド・ウエイの舞台女優である。本人はギリシャ系だと言っているが、金髪と青みがかった瞳をしている。夕方、いつもジョギングしているのは職業上の必要性があるのかも知れない。そんな時刻、公園などで散歩していると、後ろから足音を忍ばせて近づいて突然ガッシとしがみつく。  
 こちらが驚く表情を楽しみながら彼女は走り去る。イタリアの舞台美術の研究に来たらしい。  
 フランクはタイム・ライフの文芸記者である。無口でおとなしい性格なのだが、私達仲間になんとかサ-ヴィスしてあげようという気持ちが痛ましい位に理解できる。このイタリア語講座の後、イタリア美術や文学の研究をするつもりらしい。アングロ・サクソン系のようだ。   
 この二人、アパ-トを借りて一緒に住んでいるが、なぜかサイフは別々である。  
  
 次はフランス。彼女のフランス語名MONIQUEは発音しにくいので私達はイタリア語でモニカ(MONICA)と呼んだ。彼女はまだ22才だが年齢より落ち着いて見えるのは、ルノワ-ルの絵に出てきそうなそのふくよかさのせいだろう。趣味はスカイ・ダイビングだと言うがその体型からは、にわかには信じがたい。フランス語の他、英語、ドイツ語を普通に話し、イタリア語もほぼパ-フェクトに話す。ここにはバカンスのつもりで来ているようだ。中国語も勉強していると漢字を書いてみせる。(後に、台湾のある
大学にフランス語の講師で行った)  
  
 西ドイツ。最も愛すべき仲間ラルフ、RALFMICHAELREIZ。イタリア語でRは、舌を震わせるように特に強く発音する。私達はそのことを意識してラルフと呼ぶ。  
 キ-ル大学の建築科の学生、26才。ドイツでは大学に入って卒業するまでの許容期間が随分長いらしい。だから彼等は一年おきに働いて又、勉学というように、ゆとりをもって大学を卒業できるようだ。  
 文化的にリッチな国でなければ出来ない社会システムだと思う。  
 長身でガッシリとした体躯にうすいグレイの優しい目をした典型的なドイツ青年だ。ほぼデンマ-クに近いキ-ルからBMWの単車でやって来た。普段は物静かだが、質実剛健のゲルマン気質そのものが感じられる。だが何処かにフッと孤独の影を見せる彼の雰囲気は、妙に親近感を感じさせる。  
 今の私からは誰も想像できないかも知れないが、ややヒネて大きな単車を乗り回していた少年時代、人と関わり合うことを拒み野鳥を追って山陰の島々を一人旅していた青年時代・・・と、どこかで通じ合うものがあるのかも知れない。  
  
 ドイツ組は他に二人の少年・少女、文字通りの少年と少女がいる。16才の少年マルコと17才の少女フランチェスカ(いずれも例によってイタリア呼び)である。紅顔の美少年とはマルコのような少年をいうのかも知れない。  
 顔だちや身のこなし、話し方や表情、生まれや育ちというものはかくも表れるものらしい。  
 フランチェスカは、この時代にはめずらしい清楚なアルプスの花という印象である。  
  
 イギリス:マ-ク、MARKPEARCE.彼の家系は代々、考古学者とのこと。彼もこの6月、ケンブリッジ大・考古学のマスタ-を修了してきたばかりだ。  
 ラルフが典型的なドイツ青年なら、マ-クは典型的なイギリス青年である。  
 容姿、ものごし、語り口、何をとっても私達がイメ-ジする英国人にピッタリ当てはまる。
  
  
 日本。私、こんな私である。もう一人、木村由実子がいた。彼女と私の二人がこのクラスの日本人だ。最初の数日間、このクラスの日本人は自分だけだと思っていた。確かに彼女はいたがその間、その容貌からスペイン人ではないかとも思っていた。だから始め、英語で話しかけてみたら日本語が帰ってきたので驚いた。  
 一昔前、日本の国内線の飛行機の中で英文レポ-トを読んでいたら、隣の東南アジア系と見られる男性に英語で話しかけられた事があった。東京から福岡に着く間、いろいろな事を英語で話し続けた。着陸前になって、スチュワ-デスに私が到着時間を日本語で確かめた時、「あなた日本人?」と隣の
人は普通の日本語で驚いたように私に聞いた。お互いに外国人と信じきっていたらしい。  
 今度は、そんな失敗はなかった。ここでの偶然の出会いが、後で互いに影響し合うとはその時、思いもしなかった。実は彼女が非凡な才覚の女性であることを後に思い知ることになる。  
  
 さて、以上がクラスの他の連中からサミット・メンバ-と呼ばれるグル-プである。なぜか、このメンバ-はいつも固まった。最初の間、偶然である。  
 休み時間の会話から、講義の後のお茶の時間、時には一緒に夕飯を食べ、やがて週末にはコンスタンスとフランクのアパ-トでパ-ティを始めるようになった。  
  
 最初の間、私がこの地の生活に慣れるまで、とりわけラルフとマ-クとモニカが親身になって、何かと私のめんどうを見てくれた。  
 私はこの語学研修が終わり、ロ-マに戻ればすぐに仕事に入る。それまでに車の右側運転にも慣れていなければならない。だが運転の感覚を左から右に完全に変えてしまうまでには随分苦労した。例えば交差点での右折・左折の時にどうしても反対車線に入ってしまうのだ。だから車の運転も命がけである。さらにペル-ジア周辺は丘陵地ばかりの地形でカ-ヴも多いし道幅も狭いし、そんな道をイタリア人達が車をブッとばしてくるのである。  
 休日にレンタ・カ-で練習するのに、事情を知ってるこの三人は命がけで付き合ってくれた。ラルフは常に助手席にいて助言をくれたり、とっさの時にハンドルに手を添えたりしてくれた。  
 最初の頃、二時間も運転すると頭がボ-ッとなる程疲れた。ラルフはすぐにその状況に気づき運転を休ませたものだ。  
 こんな事の積み重ねのおかげで、私はロ-マに戻って車のブッとばしをやれる位の自信もついた。  少なくとも’Do as Romans do.’でなければ、あそこではマトモに生活さえできない。  
  
 この地に不慣れな私を、彼等はなにかにつけ気をつけてくれ・面倒をみてくれてたようだ。ペル-ジアでの短い研修期間ではあったが彼等を通じ、車の運転だけでなく、ヨ-ロッパの社会の中でそれなりに生きてゆくための自信のようなものを得ることができた。この間の私を日本流に言えば、「いい歳をしたガキ」のようでもあったのだろう。