2.ムクドリと日本人 (行動・外観)

 最近でこそ旗をたてた日本人の団体旅行者はあまり見なくなったが、旗はなくとも毎年2~3月に現れる女子大生から中年クラブ・老人クラブまで日本人旅行者の大部分が団体である。言葉や安全の問題、圧倒的に安価な旅行コストの事を考えれば、この集団での旅行という選択は正しい。アメリカ南部の農協老人会のようなグル-プが毎年、夏にドイツのライン河下りに現れるのも同じ理由だろう。  
  
 但し日本人の場合、女子大生の一群でさえ、なぜか服飾などのファッション傾向が皆同じように見える。服装のデザインやカラ-傾向、ポシェット、バックに靴からアクセサリ-まで選択の幅(レンジ)が狭い、つまり選択のバラツキが小さい。センスが悪いと言っているのではない。ひと頃の日本人に比べれば格段の進歩だ。ただ皆が同じ傾向の選択をするという感性・感覚の共通性を言っているのだ。  
  
 これは日本における流行というモノが宗教的に強烈な影響力を持っているのか、制服などの着用や共通教育を通して子供の頃から感性・感覚が均一化したのか、あるいは心理的に生理的に何か均一化を指向するモノが体質として身に備わっているのか、もし熱心に日本人を研究するイタリア人がいたならば、訝りながらこんな課題に直面しているはずである。  
 さらに、バルベリ-ニ広場あたりをジェラ-ト(アイス・クリ-ム)を舐めながら闊歩する彼女等の一群が実はニャンニャン語といわれる独特の発声法とイントネ-ションを用いた会話体で喋り合っているのだという事を彼が知ればみぶるいして、研究の継続を断念するのは間違いない。  
  
 だが外観や行動に関しては女子大生はまだいい方で、これがビジネスマンとなれば事は一層深刻になる。なにしろ世界に進出したニッポン・ビジネスマン。中でもニュ-ヨ-ク、パリと並んで最も洗練されていると自らを認識しているミラノの連中でさえ、少年マッシモをして日本人はみな規格品と言わしめている実情もある。もしマッシモの言を彼等に伝えても、全く気にもかけないだろう。というのも「男の世界一流品図鑑」かなにかに出てくる文字通りの一流品で全身フル装備しているから、そんなハズはハナからあり得ないのである。こうなると、彼我の感覚のズレ認識の断絶の大きさは絶望的でさえある。  
 全員が男の一流品を指向すれば結果的に、外観は皆同じようなモノになってしまう、つまり外側から見れば皆一様に見える、と言うことかも知れない。  
  
 一流品好みではないが私も外側のイタリア人から見れば、そのように見られているだろうから、マッシモには日本人の事情を伝えねばなるまい。  
 さよう、日本人の場合、例え一流品を選ぶとしても、そのデザインや色の選択は必ず属する社会とか周りの人達との比較において決定される。派手からず地味からず・・・ある一定の範囲(レンジ)から外れることはできない。おしゃれと言ってもせいぜいその許容範囲内でつつましく僅かに他を抜きんでている程度がよい。できれは平均レベルであることが美徳である。この「中心指向」「共通指向」とでも呼ぶべきこの感覚は男女を問わず、どこに住もうと日本人社会にいる限り暗黙のプレッシャ-として日本人なら感じるモノである。  
  
 また、件の女子大生達に見られる流行り病のように過敏な、流行に対する反応も言ってみればそれと同種の「中心指向」ではあるまいか。ファッションだけでなく、スポ-ツや趣味趣向など行動全般、と言うより文化全般において日本人は流行への指向性が強いようだ。  
  
 察するに、やはり子供の頃からの制服の着用や教育制度との関係もありそうだ。またそういう制度を選択すること自体も「中心指向」である。  
 この日本人の「中心指向」「共通指向」の特性は一体何を起源としてどこから出て来るものだろうか?