秋になりブラッチア-ノ湖にまたマガモ達が戻ってきた。エクリプスと呼ばれる夏の間の地味な羽色からオス達はあの輝くような繁殖羽根に換羽の最中だ。もうじき彼等が輝くシ-ズンである。
アルプスのゴ-ルデン・イ-グル達は羽色を一年一年変えてゆく。翼の白斑や尾羽根の白い部分が年々消えてゆき、頭の頂から後頭部にかけての文字通りの金色も年々深まってゆく。換羽のたびに行動が、擬人的な目で観れば生き方が、深まっているように思われる。
人間にも人生のどこかにシ-ズンがあり、鳥達のように換羽をしたり昆虫達のように脱皮したりして生き方に変化が起こるように、人生にケジメのようなものがつく瞬間があるような気がする。
私の場合、それは人や出来事との出会いのようなものだと思う。それも偶然にやってくる。先ず、私という自我がこの世に生まれてきてきた事自がそうである。人生半分運である、と思う。その半分までは自分の努力や能力の及ぶところではない。だが、何事もこうマイナ-に考えるのではなく、出会った出来事なり人なりの偶然の結果(運命か神かの思し召しかも)を基に、’さ-どうやるか’と自己を試すのであろう。毎日出会う偶然はいい事ばかりでもないし悪い事ばかりでもなさそうだし、また自分にとって重要なのにその意味さえ気づかずに通り過ごした出会いも多いと思う。
そんな中で、それまでの生き方・考え方を強烈に変革させてしまうような人や出来事との出会いもある。鳥達が換羽をするように昆虫達が脱皮をするように、その時から人生の時間の質が変ってしまう。それは生きてゆく上でも、会社員としての仕事の上でも、趣味なり社会活動においてもあった。
例えばワシ・タカ・ハヤブサの写真を撮るという私の趣味に限っても、そんな偶然の出会いの結果があり、それを基にそこでの生き方にシ-ズンが在った。
鳥との関わりは、先ず父が趣味でハンティングをしていた事から始まった。物心がついた頃からその獲物を通して鳥の色や形に強い興味を持った事に起源はあると思う。その父がある日、「もう殺生はやめよう」と突然に銃猟を止めた。止めた動機に何があったのかは知らないが、その後はただ犬を連れてただ鳥を見るためだけに、私を連れて山に行った。野鳥の会やバ-ド・ウオッチングなどという洒落た文化など私の故郷ではまだなかった時代である。
父はその後、間もなく世を去ったのでその心変わりの理由を知る機会は無かった。
以後、ボ-イ・スカウトや山岳部等で自然との関わりはあったが鳥への関心が特にあったわけではない。
20才前後の頃、その時代の他の多くの若者達が政治活動やなんらかのグル-プ活動に熱中する中で、私はモダン・ジャズやシュ-ル・リアリズムの芸術などに凝っていた。凝るのである、徹底的に私は凝るのである。そして疲れるのである。そんなある日、「現代詩」という雑誌に川崎洋という人が「鳥」という詩をかいていた。やや暗いが、ナイ-ブな詩であった。それこそ自分が書きたかった詩であった。もう自分で詩を作る意味はない。だからもう自慰的詩作もシュ-ル・リアリズムもジャズも止めた。
だがこの詩は、ある事を気づかせた。一つは「鳥」そのものである。自分にとって「鳥」そのものが何か特別の意味を持っているような気がした。そ
して次に、その鳥との関係を詩以外の何らかの方法で持ちたいとの強い願望が身体の芯から湧き出てきたのを覚えている。
絵か?絵で表現するか。やりたいが、今からすぐには間に合わない。では、もっと直接的に表現できる方法は?写真だ。これが自分に最も近い。
大金をはたいて望遠レンズを買った。野鳥の写真を黙々と撮り続けた。昔、父について野山に鳥を追っていた子供の頃の勘と経験が役にたった。楽しかった。人生のシ-ズンが変わったようだった。
だが何事も我流には限界がくる。行き着いてしまう。撮る野鳥の写真も、もうマンネリだし、ただ野鳥の写真を撮り続けても何になる・・・。そんな
時、生物学のK教授の指導で、数人の野鳥生態研究会を創った。だんだん活動は発展して、多くの人々が参画するようになり活動の幅も広がり、今の日本野鳥の会のような団体が私が住む地方にも出来上がってきた。
自分が撮った野鳥の写真も自然保護の啓蒙や生態研究の意味では、少しは役にたった。だがこの活動で楽しかったのは、それまでに較べて多くの人々との出会いがあったからだ。多種多様な人々が集まれば間違いなく視野が広くなる。
とりわけ、生態学的研究をやっているグル-プとの関わりは特別だった。
例えば、ある無人島の探検調査に行く場合、その計画段階ですでにすざましい激論になる。自然保護のボランティア活動とは、自分でお金を出して危険な無人島等で仕事をする活動である。参加者は職業・職種も多種多様であり、行動も考え方も全く違う。「へ~、公務員はこんな考え方をするのか~、あの分野の人達はこんな選択をするのか~、こんな理論・こんな技術があるのか~」とか、とにかく人生の視野を拡げるのには十分な環境であった。
探検とは、私は以下の条件での活動だと思っている。
①先ず、目的があること。単に好きな野鳥を見たり写真を撮る事が目的ではない。
②次に、未知であること。目的とする内容が未知であり、その目的達成のために未知な部分の調査や研究に行くのだ。
③ある程度、危険が伴う事。観光地に旅行にゆくのではない。だから事前に十分な訓練などやる必要がある。
④目的達成のための方法論があること。理論も技術も全て準備できてる事。
好きな事とはいえ、自分のお金をだして難しい理論の勉強をし、激しい訓練をするのだ。皆が一生懸命にならないはずがない、激論もケンカもあった。
だから、面白かったし自分の視野・視点を大きくできたような気がする。勿論、人生的にである。
ず-っと後に、日本野鳥の会の若者達を集めてテクニカル・チ-ムというグル-プを創ったが、それはこの時の活動の延長上のものである。国際協力をやるレベルにまで到達した。若者達に理論・技術とロマンの場を与えた活動であった。彼等にとって人性的な経験になった事は疑いない。
話しを野鳥の写真に戻そう。単に野鳥の写真を撮るだけでも、そんな活動での経験や知識はベ-スになる。だが、そこでも再び限界はくる。活動が地方から日本野鳥の会へと、全国的な活動へと移ってゆくと人との出会いの機会も増えてくる。ある時、日本の野鳥写真の草分け的な存在の高野伸二さんと佐賀平野にカササギの写真を撮りに行った。その後も何度か海や干潟にご一緒した。
私が最初に買った野鳥の写真集も高野さんのだし、その後も出版される野鳥の写真集で美しいのは皆、高野さんのものばかりである。私は、もしこの野鳥の写真という趣味を続けるならば・・・・・と、考え始めた。
自分がやる事が自分のためだけの慰め的な趣味でいいなら、何も考える事はない。だが人生、それでは寂しいだろうが。できれば自分がやる事も少しは世のため人のためになり、せっかく人生の時間をかけるのだから少しは意味有りなやり方を考えて、人生の価値を少しでも高めようではないか。
だが、自分が高野さんと同じ写真を目指しても、けっしてこの人を越えられないことは明白だ。それにかくも野鳥を愛し・野鳥を知り・その最も美しい姿を写真にとらえ・自然の意味を世に問える人は高野さんをおいて他にはいない。多分、日本にはこの人さえ一人いれば十分だ、と思った。
私には私なりの役割なり道があるはずだ。
人間、好きなことなら一生懸命考えられる。そしてそれなりに考えは出てくるものだ。価値とは、・・・と、考え始めた。ものごとの価値にも法則がある、などと考え始めたのもこの頃だ。要は、・・・・
・量で価値を出すか?あらゆる種類の野鳥の写真、あらゆる環境・状況の写真など、数多くの写真を撮る。
・質で価値を持つか?誰よりも美しい写真を持つとか、誰よりも美しく写真を撮るとか・・・
・希少の価値を持つか?誰も他の人がやっていない写真、誰もがやれない写真を撮る。
と、いう事ではないかと考えた。そして野鳥の写真の場合、ある程度の知識と経験を得た後では、よい写真は時間の函数で撮れるのだと考えた。土日の休日だけに野山にでる私と、いつも写真を撮れるプロの人達とは「量」は決定的に差がでる。また「質」もその量の中から選ぶのであり、野鳥の場合はスタジオ写真のようにモデルにポ-ズをつけさせる訳にはいかない。
従って私の場合、第三の選択、つまり誰もがやらないor誰もがやれない分野を選択するのがよいと気づいた。
こうして普通の野鳥の写真を止めて、猛禽類つまりワシ・タカ・ハヤブサだけの写真を撮り始めたのである。猛禽類は生息数が少ない。だからプロの写真家が彼等を追っていればメシが食えない。つまり売れる程、写真が撮れない。それに猛禽類でもイロイロあって、オジロワシやトビのような食稼業も厭わぬ種も昆虫・爬虫類・両生類など気楽な稼業で生きる種、そしてハヤブサやゴ-ルデン・イ-グルのように自分と同大の生きた獲物を狩り取って生きてる種もいる。
そんな中でも勿論、最後のカテゴリ-を私は選んだ。なぜなら彼等は人がめったに近づけない、無人島の絶壁や高山の絶壁などに生息しているからだ。
彼等の生態を乱さぬためには日の出前・日没後などに一人でそんな場所で行動しなければならない。一人で行動する事が最も大切だ。
幸い私は、子供の頃からボ-イ・スカウトや山岳部での経験から一人での野営もロック・クライミングも少しはやってきた。そんな訳で、ほかのプロ
達がやれないこのジャンルも私ならやれる。
野鳥の写真を巧く撮るためのポイントを端的に言えば、魚釣りと同じように一場所、二道具、三技術とでも表現できそうだ。私のワシ・タカ写真で
一場所はそれまでの調査や研究で少しは分かっており、またそこの環境で自由に行動できる自信はある。
次に道具は、大金をはたいて800mmの超望遠レンズを手にいれた。当時、年間所得に近いこの出費は生活を賭しての決断だったが、その後もなんとか飢餓に耐えつつ生き延びた。やればやれる。
ここまでで、ワシ・タカ・ハヤブサの写真を撮れるとすれば、いつか誰か自分と同じ条件の人が出てくれば、同じような写真を撮る事になるだろう。
そのうち誰かにカンタンに追いつき・追い越される程度の仕事なら、大切な人生の時間をかけて努力する価値はない。そこで、あるのは技術である。
川崎洋の詩の中で、多くの詩の中で、鳥は自由に空を飛んでいる。文学の中でも音楽の中でも鳥はいつも空を飛んでいる。だが、絵画の中で空を自由に飛んでいる鳥を見たことがない。西洋美術、とりわけ17世紀以後の博物学以後の絵画・リトグラフの中にもなぜか飛ぶ鳥はめったにないし、あったとしてもそれは単に死んだ鳥の翼を開いて描いているだけだ。
東洋美術でも花鳥風月のテ-マの中で鳥はそれなりの位置を占めてはいるが、飛ぶ鳥はすくない。しかも「落雁図」に見るように、それも単に死んだ鳥の翼を開き模写しているだけだ。実際に鳥が空を飛ぶときの翼や身体全体のフォルムは自然の流体力学法則に従った、もっと優雅でそれ自体が流れのような美しいものがある筈だ。
紋切り型の東洋美術の絵に占める、鳥の位置は実に美しい。バランスも大きさも、この紋切り型の構図が何百年もの間、問い続けてきて東洋の感性の集積だという事がようやく分かるようになってきた。だがその飛ぶ鳥のフォルムが汚い、醜い。日本画の源点、中国の「介子園画伝」の中の飛ぶ鳥のどの絵を見ても同じだ。
鳥の最も美しい部分、つまり鳥が空を飛んでいる時のフォルムはかって誰の目にも見えなかったのだ。人間の肉眼では一秒間に数回、はばたく翼の動き・形を見分ける機能がない。もともと人の眼には見えなかったのだ。
そして今、それは1/2000秒の瞬間を切り取れるカメラと800mmの望遠レンズで見えるようになった。ただし、目の前を高速度で飛び過ぎる一
瞬に、先ずハヤブサを800mm望遠レンズの画角3°のファインダ-に捉え、次にとりわけ焦点深度が浅い(ピントが合っている範囲が狭い)この超望遠レンズのピントを飛んで来る鳥に合わせ、そして羽ばたく翼のフォルムを見極めながらシャッタ-を切る、という技術が伴えば・・・・である。
それを私はやった。目だけは人並み外れていい。努力もした。最初、路地を低く飛ぶツバメを相手に300mmレンズで練習した。
だからそれ以後、私の写真は飛んでるハヤブサとワシ・タカだけだ。鳥が飛び立つ瞬間でも着陸する瞬間でもない。正真正銘、飛翔中の姿である。実際にはイロイロと危険なメにも合ったし、苦労・辛い思い・怖いメにも遇った。だが自分の好奇心を充たす冒険もあったし、自分に関する物語もできた。
そして誰もやれないだろう・撮れないだろうという写真、ハヤブサ、ミサゴ(うみたか)、ゴ-ルデン・イ-グル、ランナ-・ファルコン、サッカ-・ファルコン達が飛翔中のあらゆるフォルムを撮った。私が撮った写真は飛んで来るハヤブサの鼻の穴までピントが合っている。
飛んでいる彼等猛禽達のフォルム美をより強調するために、私はカラ-・フイルムを使用しない。その美を私は言葉では表現できない。ここで詩を越えたかな、と思った。実際、これまでに私の作品集・カレンダ-やポスタ-も何度か出たし、ヨ-ロッパのその手の図鑑や写真集に出ている日本人写真家はまだ見ていない。いまのところ私だけだ。
DerekPatcliffeの”ThePeregrineFalcon”というその方面では一番、権威がある本に私のハヤブサの写真が使用されて、ヨ-ロッパでも野鳥や猛禽、野鳥生態を研究する人達に私の名は知られたようだ。その後、どの国に行ってもこの事が役にたった。まだ鉄のカ-テンがあった時代のハンガリ-でさえ、これは特別の効果があった。本業の仕事でさえこれは効いた。イギリス、オランダ、フランスでも仕事の関係者にもバ-ド・ウオッチヤ-は多い。彼等がその事を知ると対応が変わった。ペル-ジアのクラスメ-トのマ-クでさえ、ハヤブサがカッコウを捕まえて飛んでいる写真を知っていた。
この有頂天の気持ちもペル-ジアの出会いで終わった。偶然の出会いで人生のシ-ズンは変わる。それが、ペル-ジアの例のクラスでただ一人の日本人クラスメイトの木村由実子である。
彼女は、トリノの国立美術アカデミ-の彫刻科に留学のため、イタリアに来ている。デザイナ-でもある。デザイナ-としてはすでにプロである。こ
ちらのデザイン雑誌に彼女の作品が紹介されているのを見た。
この日本人のクラスメ-トは、私が撮った内心自慢の写真を見ての第一声は「よく頑張ったわネ!」だった。続けて、「だけど、もし貴方の横に貴方と同じ望遠レンズと同じカメラで同じように写真を撮っていた人がいたら、同じような写真が撮れていたのよネ」と言う。私はひとしきり、この写真を
撮るまでの思想と技術的むずかしさを語った。
「そ-か-、技能的にむずかしいのか-。じゃ、貴方は技能者というわけか!」正直、アタマにきた。この神聖なる自然の生態写真と、それまでの
努力を肉体労働の延長としか見てくれない。
確かに芸術としての目で見る限り、どんなに美しい自然の写真を撮って来ようと、どんなに珍しいチャンスを撮ろうとも、それは偶然の運と技能とガンバリの結果で、文字通り’真’を写した「写真」に過ぎない。自然の写真である限り、作者の創造性なり思想なり個性を表現できる余地は、つまり自然写真が芸術になり得る余地は、偶然の結果としての写真の中からイイ写真を選択するところを除いては無い。
このところ自然を題材にした絵画の世界ではス-パ-・リアリズムというのが静かなブ-ムをよんでいる。かっての超写実主義は写真の発達とともに消え去ったかに見えた。だが写真に関する技術がどう発達しようと、写真は現実・事実を写し込むだけだ。いかに美しい鳥や自然を写そうと、写真には写したくもない背景や陰影まで写ってしまう。理想として頭に描く背景を写すわけにはゆかない。写真の限界である。
こんな中で、写真よりも美しく、写真のように自然の美を細密に表現するス-パ-・リアリズムが台頭してきたようだ。絵画の側から限りなく写真に迫るス-パ-・リアリズムに対し、写真の側から絵画に迫る事を考えないかと彼女は私に提案した。また、シ-ズンが変わるようだ。
写真の側から限りなく絵画に近づく。そんな事を私とて考えなかった訳ではない。「介子園画伝」の花鳥画のバランスのとれた構図をなんとか写真で表現したかった。雲や月や波や岩などの背景と組合わせてコラ-ジュを試みても、どうしてもチグハグな切り貼り写真にしかならない。これでは芸術写真どころかパロディである。考えてはいたが実現のための技術が伴わなかったのだ。
ペル-ジアが終わって数カ月が過ぎて、彼女からの連絡が来た。ず-っと考え続けていたのだという。そしてマスキング・ペ-パ-だのデザイン・
カッタ-だのエア・ブラシの小道具だの携えて、彼女はトリノからロ-マまでやってくるようになった。
彼女は先ず、私のネガからピンボケを退治した。例えば、ハヤブサが背後からカモを襲っている写真がある。このシ-ンを望遠レンズで撮れば、後ろのハヤブサにピントが合えば距離が違うカモは当然ピンボケになる。そんな写真は手元にゴマンとあるが、どんなに素晴らしい瞬間・構図でもそんなピンボケ写真は作品にはならない。自分のアイデアと技術で彼女は、このピンボケ部分をシャ-プな合ピン状態に作り変えていった。そのやり方は、ピンボケなり合ピンなりがネガの表面でいかなる状態であるか・・・・という事を冷静に考えてみれば私にも分かった筈だ。結果は実に美しい仕上がりだった。
複雑な手順や操作を要するが、この技術を使えば当初想像したコラ-ジュを越えてどんな事もできた。それまで撮ってきた手持ちのネガを使って他の写真を描く、つまり写真のネガをペン代わりにして全く違った写真を自由に描くこともできた。もはや絵画と同じように創造の自由が手に入った。
次に彼女がやってくれた事はカラ-・フレ-ミングである。私が撮る写真は全てモノクロでカラ-・フイルムは一切使わない。その理由は、飛ぶ鳥のフォルムだけに見る人の感覚を集中させたいからである。カラ-を使えば人の目は色に行ってしまう。だが彼女は自然には色も必要なのだという。その調和点として彼女はカラ-・フレ-ミングという方法を考えだした。それはモノクロ写真をパネルにする時、写真の周辺のフレ-ムをカラ-で着色し、例えば写真の中のカラ-・イメ-ジなり緊迫感なりを表現する方法である。
このアイデアはオリジナルであるが、その後、彼女と一緒にさせてもらったイタリア各地での個展(二人展)では大きな反響を得たものだ。
飛翔中のフォルムが一番美しいと思ってきたワシ・タカ・ハヤブサを最も美しく表現する事ができるようになった。野鳥の写真撮りという強烈な肉体
労働からの収穫を、すこしは芸術に近い世界に昇華できそうだ。
この世界における私と彼女の関係は、私の側の一方的な寄生ではない。彼女も私への援助の過程で、私が撮った猛禽類の飛翔中のフォルムに興味が湧きその後、彼女の彫刻家としての作品にワシやハヤブサのフォルムが立体的に表現されてくる。だからこの関係は共生である。
実際そのず-っと後、彼女はまだ美術アカデミアに在籍中ではあったが、1990年・イタリアワ-ルド・カップ・サッカ-と併設された国際美術展に日本人として彼女がただ一人だけ選ばれて出展したが、その時の作品は飛翔中のハヤブサをモチ-フにしたものであった。少なくとも大空を高速で翔ぶ猛禽類の空力的美・ダイナミズムを表現できる彫刻家は、世界にもあまりいない筈だ。彼女が住んでいるトリノからアルプスは近い。ゴ-ルデン・イ-グルの飛翔を見るためにアルプスのパルコ・ディ・パラディソの谷間に毎週、出掛けているらしい。
それにしても芸術家にしては珍しく寡黙なこの人には、時々このイタリア人の口からもウナリ声を出させる程の何かがある。アオスタの州立美術館ででの個展(二人展)の時にもそれをやった。今度は、空翔ける女神の塑像を本当に支えなしに空中に飛ばせてみせたのだ。イタリア各紙は、彼女の作品には青空が見えると書いた、風の音が聞こえると書いた。ID(工業デザイン)の方では、イタリアの有名どころから何度かアイデアを盗まれた彼女だが、芸術の世界ではそんな事が起こらなければよいがと、思っている。
一度、イタリアの自然保護と地球環境問題をテ-マにした共同展に頼まれて私の写真を出した事がある。その展覧会を見て彼女は、自然愛好家の自然愛好家による自然愛好家のための展覧会だと評した。それを見に来ている人達は皆、始めから主張したい事が分かってる人々であり、重なるのはその意義を分かっていない(そんな会場には来ない)一般の人々を啓蒙する事ではないか、という。そのためには、もっとドラスティックな表現でテ-マをアピ-ルするのだと言う。そこで二人での共作・コラボレ-ションが始まった。
私がイタリアで個展(二人展)をやれるようになったのは、こんな所からである。そして、それはこの地で思いがけぬほどの好評を得た。
人生のシ-ズンが変わるような出会いの中でも、相互に力が良い側に効き合うような組合せならば一層大きな相乗結果も産まれるようだ。
おかげで、私も彼女を通してこの地の芸術家やデザイナ-達とも交流でき、また思いもかけぬ個展(二人展)などやれる機会さえ得た。そしてその延長上には、私達がやれる事・やるべき事もありそうだ。今、ここでエッセイなどにチャレンジしているのも、こんな事が一つの動機である。
人生とは私という自我・意識が、なぜか偶然この私の身体という笹舟(器)に乗って、はてしなく続く時間という流れの上をしばし、たゆたっているようなものであろう。その小さな笹舟が流れにたゆたう間に、いくつか人生の季節にめぐりあう。
笹舟が浮いているしばらくの間にできるだけ、沢山の美しい景色や美しい音楽や美しい想いにみちた良い季節に出会えることを願う。
自分にも美しきものを創り出せる機会が与えられるならば、それほど至上な歓びはないだろう。そんな幸運を運び来る出会いは、神か女神の業でるに違いない。