11.TOLFAの森の中で

 ロ-マの中心から西側に向かいロ-マ空港の3キロほど手前から、右手、北に向かう高速道路がある。計画ではティレニア海に沿って北上しピまで続くはずであるが、今のところロ-マの次の港町チビタベッキョまでしか完成していない。  
 そのチビタベッキョの少し前で高速道路を降りて、山の方、トルファに向かって細い道路を登って行く。谷に沿って曲折しながら登って行く道の側まで、ロ-マ近郊では珍しい広葉樹林が迫っている。この辺りは自然保護区になっており、多様な景観とファウナを見る事ができる。日本では見られない生き物にも出会う。この付近の谷川がとりわけ美しいので家族で時々出掛けて来る。  
 ある時、谷川で水遊びをしていた当時まだ5・6才だった娘が「大変だ~」と叫んでいる。急いで行ってみると、「ヘビがオタマジャクシを捕まえた!助けてあげて!」と言う。確かに小さなオタマジャクシは沢山いるが、ヘビらしい姿はどこにも見えない。「どこだよ!ヘビなんかいないじゃないか」ときく私に、「ホラ、あそこ!」と浅い水の中を小さな手で指さした。  
 「ヘビは水の中には棲まないの」と言いながら、水の中を覗いて見て驚いた。  
 マサカ・・・!水の中にはなんと、やや太めのミミズ程の小さく細長い、まぎれもないヘビがいるではないか。そいつはオタマジャクシを喰わえ込ん
だまま、水中の岩影に身を潜めていた。こんなに長い時間、水の中にじっとしておれる水棲のヘビなど中南米の熱帯にしかいないはずだが・・・。   「早く助けてあげて!」と、娘は真剣である。「本当にヘビかな?」と娘の心情をはぐらかすためと、私の好奇心から木の枝でチョットだけつつい
てみた。その瞬間、小さなヘビは素速い動きで水中を逃げ去った。その素速さは今までに見たどんなヘビより敏捷で、その動きはまぎれもなくヘビ
のものだった。オタマジャクシを助けてあげずに済んだ。  
  
 自然の中ではいろんな発見がある。むこうで息子が呼んでいる。先程、見たあの鳥が死んでいるという。行ってみると鳥は間違いなくBeeEater
(ハチクイ)である。この森に入る前、ふもとの方でこの多彩色の美しい鳥を皆で見たばかりだ。外傷もなく死因は分からないが、死後あまり時間
が経ってはいないように見受けられる。このカラフルな鳥をこんなに近くから見た事はなかったので、手にとってみようと手をのばしかけた時、側で、のぞき込んでいた息子が言った。「ちょっと待って!ウジがいる」確かに目の周りに小さな動くものがある。それに僅かに悪臭も発しているようだ。  
「かわいそう」と言った娘が、「お墓を作ってあげようよ」と言いだした。  
  
 ロ-マは日本人の社会が小さな都市である。その頃はまだ日本人学校も作ってはいなかったし、日本語での教育のためのテレビも本も十分ではなかった。だからどんな事でも親自身が直接、自分の子に教育をする必要があった。  
 もっともどこにいたとしても当然の事ではあるが・・・・。  
 そこで私は、ここで子供達に自然の生態の話をしてあげなければならない。  
 今、目の前で死んでいるビ-・イ-タ-を中心に、生態の食物連鎖や自然の輪廻についての話をした。ビ-・イ-タ-はハチなどの昆虫を食べて生きている事、そして今、死んだビ-・イ-タ-に涌いたウジはハチかハエの幼虫でいつか又、ビ-・イ-タ-に食べられるかも知れない。自然は互いに持ちつ持たれつのグルグルまいで、ビ-・イ-タ-は今、死んでも自然の中での働きをしているのだ。だから、自然ではない私達人間がお墓を作ってあげたり手を出してはいけないのだ。というような話しをした。
 自然は複雑に関係しながら成り立ってはいるが、その中で生きる全ての動物・生物がそれぞれが生きる場においておりなす、生きる権利と生きるための義務について理解させたかったのだ。  
 自然の中では鳥や動物達は生きている事の歓びを享受する権利がある。ただし活き活きと美しく歓びに満ちて生きてゆくためにはそれなりの、生きる努力つまり、それなりの義務を果たす必要がある。餌を自分で採り・敵と闘い・巣を造り・子を産み育て・渡りをし、死ねば他の動物の餌や植物の肥やしになる等の義務があるのだと・・・。  
  
 人間が生きてゆくうえでも基本的には同じであろう。だが人間社会で権利と義務を語る時、話はなぜか闘争的な語り口になる。  
  
 ペル-ジアでもそういう事があった。私のパラッツオにミ-の他に、タイから来た少年がもう一人いた。カイという名でミ-より2才年上の、年齢の
わりには英語も日頃語る話しの内容もしっかりした少年だった。  
 ある日、彼が自分の将来を語っていた時、自分はいつか陸軍士官学校に進み、国境周辺の内乱を治めるために戦うのだと言った。  
  
 それを聞いて、メラニ-が強烈な指導教育を始めた。彼女はインタ-ナショナル・アムネスティのメンバ-だった。力強く、時に静かに人間愛・
人道主義にみちた教育は徹底的に進んだ。  
 「人を殺す事はよくない!分かった?」  
 「ウン、あんたが言ってる事は良く分かった。だけど僕、士官学校に行く」  
 「・・・・・・・・」  
 ドイツ人は日本人と同じように固定概念を持ち過ぎる。自信があるのか、内容がいかに人道主義や博愛主義に満ちたものでも、自らの信念・価値観を押しつけ過ぎる。彼には彼の、彼の国には彼の国なりの事情があるかも知れない。そこにはヨ-ロッパとは全く異なった、民族や人々の価値観や社会のロジックがあるかも知れない。他に対し、外に対し影響力を与えるような主張をする者は先ずは、相手の立場や事実・実情等を謙虚に知る義務があるのではなかろうか。  
  
 自分の立場からだけで意見を主張する程、楽な事はない。物事を一つの立場だけから把らえ、判断し、主張するのは容易だ。物事の事実や真相をあらゆる方向から知るには、それなりの努力が要る。決して容易な事ではない。自らの意見を主張する事を「権利」と思う者は、それと同じ重さの知る「義務」があるのではなかろうか。少なくとも自然界では「権利」と「義務」の重さが、等しいように思われる。  
  
 自然保護活動をボランティアで行う人達の中でさえ、主張だけに固執する人もいる。自然保護はすでに地球規模で考えねばならない状況に至っているのに、やはり「おらが村の森」だけしか見れない人もいる。自然保護が大切なら、ボランティアだから許されるという訳にもいかない。与えられた立場にはそれなりの責任・義務というものがある。勿論、問われぬ義務など、自分から申し出る事もない。要は、本人の倫理観や正義感だけだ。
だがその倫理観・正義感もいろいろで、視点をどこに置くかで人の言動・行動は違ってくる。「子分達にメシを食わせてやりたいばっかりに・・・」と犯罪を犯す親分もいる。「地元の人達の経済振興のために・・・」と希少自然を開発する首長や業者もいる。「業界保護のために・・」と社会的損失を出し続ける政策を改めない省庁もある。自然保護の活動家も「仲間達を楽しませてやりたい・・・」ことだけに終始したとしても問題にはならない。  
  
 誰にもそれなりに正義感はあるのだ。だが、自分が関与する部分だけしか見ずに主張し行動するのは、自分の組の正義のために社会犯罪をするマフィアの思考ロジックだ。そういえば日本語で人の権利・「人権」という言葉は一般的に使われるが、人の義務を表しそうな「人義」という言葉はないようだ。それに近い言葉・「仁義」の解釈で、人の義務を理解しているのかも知れない。人の「知る権利」は話題にはなるが、人の「知る義務」は話題にはならない。どんな人も同じ人権・参政権を有しているのに・・・。  
 主張する内容がいかに崇高なものでも、全体を知る義務を忘れ部分の立場だけからの権利に固執すれば、やがて主張している内容が大切なのか、その事を自分が主張している事自体が重要なのかさえ分からぬものだ。  
  
 こうは言うものの、私とてそんな正義を語る自信もない。世界をそれ程、知ってもいないし理解度もあやしい。人間社会を一レベル下げて生態学で見たつもりの世界が正しいとしても、人間社会は日に日に変わってゆくし、揺れ動く。世界が揺れ動けば、自分自身も揺れ動く。自分の心さえも不動の自信はない。朝に方丈記の無常観があっても、夕方に札束で頬を打たれればコロリと心変わりをするかも知れない。心変わりをせざるを得ない事情も生じるかも知れない。人は、時に自分さえも、信用できない。人はかほどに弱いものだと思っている。 
  
 揺れ動く世界と揺れ動く自分自身のはざまで、自分なりの権利と義務のバランス感覚を保つ意識を持ち続ける事だけに、生きる正義があるのかも知れない。だがそのゆらぎの間で、あるいは自分の生き方・価値観が、他の人達と乖離してしまう事もあるかも知れない。友人や家族や自分を取り巻く社会の人々と激しく乖離してしまったら・・・・・私は自分の魂を売ってまで生きる事ができるだろうか?  
  
 さて、この美しいトルファの自然の中で、自分の子供達に生きる物の権利と義務について語る一方から、自信を失ってゆけば、親としての立場はどうなるのだろう。