所用でフランクフルトに行った。ここの駅裏には、ちょうど日本のガ-ド下のような一種独特の頽廃的ム-ドを醸しだしている一帯がある。飲み屋街、とは言っても勿論ビア・ホ-ルであるが、ここが何か不思議な懐かしさを漂わせている。この懐かしさは一体、何だろう?街並み、人、どれも違う。
ビア・ホ-ルに暫くいて、やっと分かった。人々のビ-ルの飲み方だ。ビ-ルを飲むこと自体が目的でビ-ルを飲んでいる。
「遠慮するな!マ、マ、マ・・・・・もう一杯!」
「ウイ~、もうオレ飲めない!」
「まだまだイケる。グイ-ッとやれ!」
ドイツ人もコレやるのか!酔っぱらいがいた!
そういえばイタリアにいてイタリア人の酔っぱらいを見たことが無い。こうやって無理に酒を勧め合うのを見たことがない。「いらない」と言えば、それまでだ。イタリアではワインの種類も豊富ならビ-ルは勿論、ロ-マ時代の昔から酒の種類は極めて豊富だ。イタリア人は酒好きだが酔っぱらうまで決して飲まない。イタリアでも飲み過ぎでベロベロに酔っているのを一二度見たが、あれは日本人とドイツ人だった。
この酒飲みの文化の違いは何だろう?これも生態的に考えてみないと分かるまい。
ヒトの生態環境が豊かな南では、酒をブドウで造る。ブドウが豊富に取れてブドウ酒も沢山造れる。だが北のドイツではビ-ルを大麦で造り、日本では酒を米で造る。どちらもパンや御飯の主食が原料で、ややもすると主食さえ食いはぐれそうな環境に生きる者には、ビ-ルや酒は贅沢の極みのモノで
あったはず。だから庶民はメッタに飲めたりしない。せいぜい年に一度か二度、祭りか祝いの時に、遠慮しいしい飲んでいたのではなかろうか。
サケはそんなに貴重だから、遠慮するのは美徳である。遠慮する者にムリヤリ酒をすすめるのは、もっと美徳だ。酔っぱらうのは最高の贅沢であったはずだ。「飲める時には死んでも飲むぞ」という貧乏人の悲しい文化も有ったかも知れない。
一方、環境豊かな南の方では豊富なワインを、飲みたい者は飲みたいだけ飲めばよい。苦しくなるほど飲むなどバカげている。ゆとりの文化だ。
こうして観ると、酔っぱらいの文化の違いは、貧乏人と金持ちの文化の違いの様なものかも知れない。生活が豊かになって、いつでも・好きなだけサケが飲める様になっても、身についた飲み方の習慣は変わらないようだ。
人間の行動・習慣、あるいは文化は一夜にして改まるものではないらしい。
環境が変わってもヒトの行動様式はそう簡単には変わらない。これがイタリアに来てワインの飲み過ぎで酔っぱらっている程度で済むことなら世の中、平和でよいが・・・・・。