5.ガリレオ裁判

 我が家の近くに神学校がある。そこに一人の日本人神父さんが留学していて時々、食事にお招きしている。その折に食卓の椅子の数が有るだけ、世界各地からの留学神父さん達も御一緒にお招きすることにしている。皆若くして次の世代を担う輝きにあふれている。  
  
 今やカソリックも会派の違いだけでなく民族や地域により布教や伝導の在り方にもヴァリエ-ションが大きくなってきたようだ。多分、内部的には活動の多様性、自由度が高くなったのだろう。一度、バチカンのサン・ピエ-トロ寺院の礼拝堂で、力強く心の奥底に響きわたるようなアフリカ音楽を聞き、強烈な印象を受けた。その聖歌はパイプ・オルガンとはまた異なった、またアフリカの民族音楽ともアメリカの黒人霊歌とも異なった、文字通り魂に語りかけてくるような響きがあった。この宗教の奥深さだろう。  
  
 家にやって来る若い神父さん達も中南米、北米、東欧、北欧、アフリカ、東南アジアと国際色にあふれた顔ぶれだが、皆、現在のいろいろな問題にも率直に意見を交わしている。かって私が抱いていた聖職者の、失礼ながら、陰気なイメ-ジは一切ない。はつらつとした明るさだ。  
 私が私の自然観、人生観、社会観を語っても、彼等は決して彼等の教義で反論はしない。できるだけ客観的に物事をとらえようとする態度が感じられる。論理的に判断しようとする反応が読み取れる。  
 次世代でこの宗教を担う人の幅広さだろう。  
  
 ある時、近日中にガリレオ裁判の決着がつくと彼等から聞いた。私は耳を疑った。350年以上も前の宗教裁判での地動説異端は今日まで続いていたとは思わなかったのだ。彼等もさすがに苦笑していた。  
 だが現在でも同じような状況は生きているという。例えばあの米国でさえも、信じられない話だが、創造説を公立学校の科学の教科書で教えている州が現実に有るのだという。聖書に反するダ-ウインの進化論はケシカランとというのである。あの米国で、である。  
 我々の科学がこの世界の全てを把握しているとは私も思わない。だが科学や科学技術に基づく文化生活を一方で享受しながら、他方で科学的な思考を否定するそのメンタリティ-が私には理解できない。  
 人は変われないのか変わりたくないのか、単にエゴイズムなのか変われない事情がそれなりに有るのか・・・・。一方に文化の変革だけを追う人がいれば、他方に変わることをひたすらに拒む人もいる。人間の心のヴァリエ-ション、価値観の多様性、人間性のバラツキもこのところ大きくなっているのかも知れない。この現象を、科学技術の発展・現代文明の進化で人間社会の許容性(フトコロ)が大きくなった結果だと捉えるべきか、それとも根源的問題の兆候と見るべきか・・・私の悩みは大きい。  
  
 ロ-マ法皇、ヨハネ・パウロⅡ世が過日、中南米を訪問した時、ロ-マにいる何人かの日本人マスコミ関係者とビ-ルを飲みながら、ある事を期待しあった。それは、急激な人口増加に喘ぎ・苦しんでいるそれらの地域・国家の実状から、カソリックが人工中絶を認めるのではないかという期待であった。中絶は生命倫理上の課題である。それも産まれてくる前のヒトの人権に関わる問題である。人権とは何であろうか。そして今の社会において中絶の対象と考えられる妊娠の意味するところは何だろうか。  
 宗教上の判断が社会倫理・社会規範を決めているような世界では、宗教上の指導者は現在の社会と、間違えば多大なツケを押しつける将来社会に対する責任において、厳然たる事実認識に基づいた判断をなすべきではなかろうか。  
 カソリックにおける生命倫理からは人工中絶の許容は教義の基本に関わる重大問題である事は理解できる。だがこの問題はガリレオの地動説とは違う。人類の存亡に関わる課題を秘めている。  
  
 人口爆発地域の構造は、詳細にみれば幾つかのパタ-ンがあるようだ。だが基本的にはこうだと思う。政治や経済などの社会環境がどうであれ、飢餓や貧困などの生活環境がどうであれ、成熟した人間の生活が在る限り、性行為はする。その生理的感覚の享受は、自然界でもそうであるように、健康な人間としてこの世に生まれてきた者の権利である。  
 そこで子供を造るかどうかという意志は、時代や社会の環境によって大いに異なる。科学技術が大発展する以前は、人間の労働力が生産の手段・経済そのものであった。従って、妊娠・出産は人間社会の生産の保証であり社会存続の大前提であったはずだ。また社会通念としても子供を持つ事が将来の生活安定・老後保証の手段との考え方は普通であったはずだ。  
 だから、妊娠・出産は社会的意義においても個人的意義においても重要であり、また医学が未発達の時代においては出産や育児も安全ではなかっただろうし、加えて現在の医学的知見のない時代、妊娠は神聖な現象であった筈だ。  
 現在でもこのような状況の地域や社会は発展途上国を中心にかなり残っている。だが科学技術の発達で生産や経済の形が変化してきた現在、そのような状況は全く逆の効果を生み出す。戦争でもやる気がなければ、それらの地域や社会では人口増加の抑制が民族や国家の存亡をかけた課題とも言える。  
 かっての時代、性行為は自然界でそうであるように、生きてる者が権利として享受できる性的悦びと、生きている者が義務として果たすべき「種」の維持・子孫維持という二つの意義を合わせ持っていた。  
 だが現在、人間社会においてはこの二つの意義は分離されたと思われる。  
 我々人間が創りだした科学技術・現代文明がそのようにしたのである。今、もはや誰も人間社会においてなんらかの形で科学技術・現代文明の恩恵に浴していない者はいないので、この二つの意義は分離して考えるべきであろう。  
  
 そして今、人間社会には二種類の性行為がある。子孫維持のための性行為と、生きている事を享受するための性行為がある。両者は全く別ものである。  
 前者の子を産み子孫を残す行為は、人類の「種」維持のための、依然として神聖な行為である。  
 後者は、性の歓びを享受すればよい。生きている事の証としての悦びは大きい程よい。情愛に満ちた本物がいい。それは飢餓に在っても、赤貧の中にあっても、人間として生命を与えられた者の権利である。だが決して子供を産んではならない。子を産むことが人類の・「種」としての存続を危ぶむ状
況に在れば、子供を産んではならない義務がある。その限りにおいてはこれも神聖な行為である。神・自然に与えられた悦びの機能に対し、悦びで応えるのだから・・・・。  
 求められない受胎、すなわち「可能性の生命」は、他の無数の受精できずに去ってゆく卵子や精子の「生命の可能性」と同様に、産まれてはならない。  
 「種」の存続を否定する存在には、はなから権利などあるはずがない。  
 すでに、現実の人間社会では中絶は人類が健全に存在できるための、ひいては地球を健全に維持するために不可欠な手段である。  
  
 宗教内部においてその基本教義に関わる課題に触れることには、大きな葛藤があることは想像にかたくない。だが社会環境の変化は指数的に推移し、現実との落差は大きくなるばかりである。人を救うための宗教が人類だけでなく全ての生命の生存環境をも破壊する原因にもなりかねない。  
  
 今や神の子達は科学技術を手にいれた。今は、かの時代ではない異なった環境に在る。生物の「種」としては、自律の知恵をも持たねばならない時代環境である。法皇様も伝統の聖書にではなく、今、直接、神の声を聞かれるべきではなかろうか。そうすれば、神はそうは申されてはいない筈だ。  
  
 このところ回教原理主義者達の反乱じみた活動が目につく。彼等の活動は西欧文明、すなわちキリスト教社会に対する反乱のようにも思える。アブラハムの旧約聖書からみれば皆、兄弟のはずの三宗教が争い合うのは不思議な思いがするが、ユダヤ教・キリスト教・回教それぞれに旧約聖書を解釈した時代と環境が違う。環境が異なれば解釈に違いが現れるとすれば、今現在ほど日々新たに解釈を求め続けなければならない時代はあるまい。私には彼等の反乱が、同じ宗教系内の内輪もめ、宗教内部の自己制御のように思えてならない。  
  
 人工中絶の問題はガリレオ裁判のように、これから350年間も放置される訳にはいくまい。法皇様の世代がわりまで待つ訳にもゆくまい。その前に人類存亡の破局は来そうだから。