4.パラドックス-2

 ドア・ベルを押す人がいる。下の門のチトフォノ(インタ-フォン)がなかったから、このパラッツォの人に違いない。が、念のためにドアの覗き窓から見てみると、知らないヒト。だけど、か細い女の人だから危険はあるまい。  
  
 彼女は私の目を見据えて、静かにだが力強く自信に満ちて語り始めた。新興宗教の勧誘(布教というべきか)である。外国人である私が理解していようがいまいが、彼女は語り続ける。この手の訪問者には、イタリア語が全く分からないフリをするのがよい。彼女は深い失望の表情を見せて、お向かい
の家に向かった。  
 この間、分からぬフリして話しを聞いたが、要は今の宗教は限界にきていて、もはや人は救えないのだと言う。思い出してみれば日本でも沢山の新興宗教があった。  
 意味もなく存在するものはない。社会に需要があるから存在するのだ。彼女が言った「今の宗教は人を救えない」と言う言葉が妙に心に残った。  
 日本の伝統宗教もかっては人を救い、社会の心をまとめ、それなりに人類社会に機能していた筈だ。今や、その多くは儀式屋でしかない。社会に対する基本教義の解釈や伝導の方法や形式が、社会の環境変化に追随していないのかも知れない。  
  
 生命が発生して以後も地球上の環境はたえず変遷・変化し続けてきた。例えば、気候は短周期的にも長周期的にも変遷・推移している。長周期的に見れば、ある時は氷河期のような寒冷期があったり逆に温暖期があったり、あるいは乾燥したり多雨であったりの変遷があった。周期を小さく見ても季節の変化があり、その季節毎の天候も年によって違いがあるように、気候的な環境は変遷・推移してきた。  
 このような環境変化に対して、生物生態系は適応と淘汰を繰り返し「系」として存続してきた。すなわち、環境変化に対し移動や渡りなどで対応したり、食性を変えたり、皮下脂肪や羽毛を変化させたり、自らの行動や生理を対応変化できた「種」はその後も存続・繁栄できたが、対応できなかった「種」は淘汰されこの地上から消えていった。  
  
 さて現在、我々人類の生息環境・社会環境の変化は激しい。それも多様にかつ速い速度で変化し始めている。しかもこの急激な変化は、我々人間自身が創り出しているところに特殊性がある。自らが創り出した環境変化に淘汰されぬように適応のカタチを創り出すというパラドックスから、脱却でき得
るかが人類の今後の命題である。  
  
 アフリカの飢餓が今日もTVで放映されている。飢えた人々の群れ、中でもつぶらな目をした子供達の姿は見るに耐えられない。なんとしてもこの子達を救ってあげなければと思う。ロ-マの街でも多くのグル-プが救済キャンペ-ンをやっているし、新聞・雑誌によれば日本でも各種の慈善団体が募
金活動をやっているようだ。今朝も銀行の窓口でユニセフのキャンペ-ンを見て募金箱に私もいくばくかの金を入れさせてもらった。だが、こんな時にいつも心に迷いが起こる。これは正しいのか?  
 人間社会を生態学的な視点を通して見ると、こんな行為には大きな誤謬があるような気がする。手元にFAOの最新の人口統計がある。このデ-タによると飢餓の当該地域の人口は1975年から1990年までの15年間に80%増加した。人間社会以外で、つまり自然界で個体数がこれほど急速に増加する例があるだろうか?その地域の人々の平均寿命を仮に50才とみて、一世代50年間当たりの増加率を換算してみると、この指数的な増加傾向の異常さが誰の目にも分かる。  
  
 また生態学の基本に戻って考えてみる。ある島(当然、島の面積は常に一定だから)の中に棲めるシカの数が概して一定で、やたらに増え続けられないのと同様に、この国・地域を仮に一つの島と見立てれば、このような個体数(人口)の指数的な増加には何かの矛盾が感じられる。  
  
 人間が最初に手にした技術の一つが食糧生産技術であったろう。だがその技術で生産する食糧は植物(農産物)や動物(家畜)であり、土地が必要である。シカが食べる植物の生育量が島の面積で決まるように、ヒトの食糧生産もしょせん地表の面積で決まる。気候で決まる面積当たりの生産効率は島のシカもヒトも同じ条件だ。仮に技術的に生産性を高めるとしても、この指数的な人口増加に見合う大地の生産性を上げる技術開発が可能とは誰も本気で思ってはいないのではあるまいか。さらに、利用可能な地表全部をヒトのの食糧生産に当てる訳にもゆかない。農地とて気候や地勢を含め周辺の自然との生態バランスを無視しては成立できないのだから。  
 現実に人口が増えすぎた地域では、農地周辺の自然も燃料採取の為に木が切られ、疲弊した農地・放牧草原とともに、地表の砂漠化に拍車をかけている。  
  
 島に何世代も安定的に棲み続けるシカの個体数が概して変わらぬように、基本的には人間もその土地環境の収容能力に見合った人口で何世代も生きてきたのではなかろうか。他の自然と同じように時には干ばつで飢餓があって少しは人口が減る事もあったかもしれないし、次の年には豊かな恵みにまた人口も回復したかもしれない。彼等の生きる環境に合った、彼等が生きのびるための、彼等の知恵と文化があったに違いない。  
  
 何かを訴える澄んだ・つぶらな瞳・・・・「かわいそうに・・・何とかしてあげなくては・・・・。」  
 もしかして、地球上の全てをダメにするのは、こんな慈悲の心と科学技術かもしれない。  
  
 毎日TVに放映される飢餓のニュ-ス。私と同じ一人の人間として、この世に生を受け、生の歓びは何も知らず子供のまま飢えたまま生を終える人生があるとすれば、悲しい。  
 今やリビング・ル-ムにいて、彼方の国の悲しみをリアル・タイムに知ることができる。科学技術とは本当に素晴らしいものだ。そして私達は慈悲の心をマス・メディアを通じて参集させ、彼等に食糧と医薬をはるか離れた国々から、すぐさま航空輸送することができる。そして、彼等は救われた。  
 過去、先進国の人々は何度、そのような愛の喜びを分かち合ってきた事だろう。いかに多くの小さな命が救われてきた事だろう。人の命は地球より重い。慈悲の心も人間の欲求の一部だ。  
  
 現代科学技術は人間のいかなる欲求の実現も保証してくれるまでになってきた。遙か離れた彼の地の事情を知りたければ、情報技術はスイッチひとつで伝えてくれる。彼の地の苦しみも悲しみもワン・タッチのスイッチがたちどころに運んでくる。その耐えがたい悲劇に、すぐさま愛の手を差しのべて、彼等を苦しみ・悲しみから救うこともできる。  
  
 かくして飢餓の地の子供達は救われた、多くの人々の生命が救われた。そして彼等はまた、多くの新たな生命を育む。人口が増え環境はますます傷み、再び飢餓が始まる。先進国の人々は再びTVを通してその悲劇をたちどころに知り、慈悲の心と科学技術で愛の手を差しのべる、メデタシ、メデタシ・
・・・となる。どこまで人々は繰り返すのか。  
  
 だが、この人間社会の美談は、生態学的な長期的な視点・幅広い視野から見れば、決してメデタシ、メデタシではない。そこで救われた筈の人々の将来のより大きな悲劇を創りだし、さらには地球上の状況を一層悪化させているだけの事である。将来、人間の生命や尊厳が軽んぜられ疎んぜられるようにならざるを得ない状況を、この世代の目先だけの善意で造りだしているだけの事である。  
  
 科学技術は人間の営みを、神の意志・自然の意志から離れ自律的に存在でき得るようにした。これは全ての動物の子が親から独立し自立する時の状況に似ている。だがヒトの子はしばしば身体は自立できても、心がいつまでも自立できない事がある。  
 文明発生以来、人類は自らが変えてきた環境に合わせて徐々にではあるが人類の心、すなわち価値観・倫理観・宗教観を変えてきた。それを基に社会規範を変えてきた。社会の組織も制度も、そして個々人の生活の様式や幸福や歓びのカタチまで環境変化に順応・適応させてきた。  
 だが、概して人の心の変化は環境変化にずっと遅れて起こる。人の心は本質的に変化を好まぬもの、保守的なものかも知れない。時には、環境変化との落差が大きくなり過ぎ、宗教改革のような大変革もあった。こんな歴史はどこの世界にも共通だ。人間の心、価値観・倫理観・宗教観はそう簡単には変われぬものらしい。  
  
 ましてや現在のように、急激に環境変化が進行している時代にはこの落差はもっと大きいだろうし、多様化した社会のあらゆる分野・あらゆるレベルに及んでいるかも知れない。  
 社会の急激な変革にココロの変革が追いつかない。ココロを指数的に変革する事は余程の破局にでも遇わない限り難しかろう。人類は行動を自然や神の意志から自律的にやれても、心は自律的にはなれないようだ。  
  
 島に棲むシカに限らず自然界で動物の個体数が何かの原因で増え過ぎた時、種内の闘争や渡り・大移動などが究極の数の調整機能が働く。人間が同じようにやれば、それは内乱や対外戦争である。自然界ではこのような破局が生じないように、繁殖率の低下や越冬時の死亡率上昇などの事前の自己制御・調整機能を持っている。現在の人間の慈悲の心と科学技術は、この自己制御機能を好まぬらしい。将来の破局・大きな悲劇を理性で考える前に、目先の出来事に感情だけで行動する。彼等が大人になったらもっと大きな不幸がやって来る。互いに闘い・殺し合う、そんな破局が見えたとしても、今この慈悲の援助をやれずにおれない。今日の善意が明日の不幸、それも数十倍も利息が付いた不幸を創りだす・・・・・と、そんな結果になってしまいそうな確信じみた思いが止まない。  
 現に、今でさえ地球の砂漠化も地域紛争もそんな場所で起こっているではないか。  
  
 世界を現実に変化させている人間の科学技術、その科学技術自体も今後どのように変貌してゆくのかも分からない。それが変えてゆく環境変化に、それを利用してゆく人間の心がついてゆけない。  
 人々を幸せにする筈のものが全てをダメにする。あげくの果てに地球まで・・・・・。このパラドックス、この落差・矛盾は地球規模の課題から個々人の生活や人生規模の課題まで拡散しているのではなかろうか。  
  
 新興宗教の布教に来てくれた女性の悲しそうな表情がしばらく脳裏から離れなかった。