ForiImperiali通りからGregorio通りへコロッセオを廻り込むように、右側にフォロ・ロマ-ノとアドリアヌス門を見ながら通り抜ける。気に入りの帰宅のル-トだ。古代ロ-マの中にいるような気持ちになる。二千年前のいつか、この風景の中でこのアングルから夕暮れの空を眺めていた男もいたかも知れない。どんな男だったか・・・・などと、この地点にさしかかるといつも同じ空想が思い巡ってくる。
PortaCapena広場のところで例のごとく左に折れてカラカラ浴場の上の道に抜けるのだが、その前で何故かいつもチグハグな気分になる。正面の松林の中の白い建物、FAO(国連食糧農業機構)本部の建物である。この場所にこの風景だけはいただけない。このデザインにはいかにも第2次世界大戦直後のアメリカのにおいがする。国連・FAOの設立の歴史からみて、当時のアメリカの息がなんらかの形でかかった建物であろうと思うが、定かではない。
さてこのFAOである。ここには日本人スタッフも多く、友人・知人も多い。ここの資料室には国連の各種統計があり、身分さえ証明すれば誰でも閲覧・利用できる。まじめにそれらのデ-タを調べれば、今、地球上で起きているオドロクべき事実に多々触れることになる。そんな事実など気を付けてさえいれば、昨今のマスコミの隅には必ず一つや二つ伝えられてはいる。
だが昨今のように、あまりに情報過多の環境に慣らされると私達の感覚はマヒしてしまい、何が重要なのか・何が本質的な問題なのか・自分達にどう関係するのか等々、事の重要度さえ分からない。ややもすると、一部の人の特殊な価値観や他人の騒ぎの様に報道されたり、また見る人もそう思ったりする。さらに報道騒ぎがおさまれば事の本質は何ら変わってもいないのに人々は忘れ去ってしまう。
私も含め、人間の感覚とはこんなモノのようだ。
だが驚きと怖さを秘めた客観的な事実を、自らデ-タを調べ・分析して自ら気づいた時・確認した時のインパクトは大きい。私はこれまで自分の経験、仕事や趣味の活動を通して感じてきた事を確かめたかった。それを今、ここで自分が関係してきた各種分野の資料とFAOの資料で確認し、大きな衝撃
を受けている。それは人類の将来と地球全体に関わる事である。現在地球環境問題が流行りであるから言っているのではない。たまたま、自分が携わってきた自然保護の活動の延長上にある問題と、仕事を通して関係したエネルギ-・資源の問題や技術の開発と人間社会の発展の問題、さらにヨ-ロッパはじめいろいろな民族・社会との交流を通して感じる人間の文化や幸福の意味などを総合した危惧である。
それらは私の中で、これまでは全く別個の分野、つまりそれぞれは趣味や仕事などで互いに関係なく独立した世界であったが、全ての生命が住む環境・地球の将来の問題として見た時、全ては共通の課題である事を知った。そして現在に生きる人間・一人一人が負うべきこの命題は、それぞれの分野が独立したままでは対応できない事が分かってきた。そして自分自身がたまたま、それらの分野を浅くではあるが一渡り歩いてきた数少ない立場の一人である事に気づいた。そんな自覚のもとに、FAOの資料などで問題の大きさを確認するに至って愕然としているのである。
私はこれまで野鳥や自然の保護活動をボランティアでやってきた。また、たまたま私が、I.E(IndustrialEngineering)やO.R(OperationsResearch)といった経営管理の技術分野で仕事をしていた関係で、野鳥や自然の実情をこの技術分野の手法で調査する事を考えつき実行してきた。
つまり野鳥や自然の実態(例えば野鳥の数や種類など)を定量的に調査・分析したり、それと気象や社会的な諸条件との関係を解析したり、あるいはそれらの結果を基に将来に起こり得る諸問題を予測したりする方法を提案し、多くの仲間達とフィ-ルドで実践研究してきた。(財)日本野鳥の会で以前
テクニカル・チ-ムというグル-プがあったが、それもこの一部である。
さてその活動の当初、私にはそもそも自然保護活動なるモノが意味有りか、どうかを調べてみる必要性があった。単に私が自然好きという理由だけで、そんな社会活動を本気でやるつもりではなかった。そこである県の土地面積の目的別利用状況(例えば、自然林、改造林、農地、市街地、産業用地、道路等交通用地、等々)の推移と、地域経済指標、生活指標、人口などの社会指標の推移について、大戦後から30年間のデ-タを採って調べてみた。この結果は、私に大きな示唆を与えてくれた。
結果を端的にまとめればこうだ。人口の増加率は戦後一定の上昇期間の後、減少してきたが人の生活指標と経済指標は限りなく増加する。自然林の減少は、人の生活指標向上や経済指標向上など社会指標と反比例して進行する。
つまり、人々が物質的により豊かになることを希望する限り、生産や社会資産転化のために土地の利用は必要で、自然林が減少し続けることは避けられない。例えば、誰も狭いアパ-トに住むよりは庭付きの広い家を望むし、狭い道より交通渋滞のない広い道路を望む。豊かな生活には電気も車も建設資材も必要だ。高い果物より、安くておいしい果物が沢山あった方がいい。
自分も自分の家族も、そして誰も皆、生活は豊かな方がいい。これが福祉社会の目指す方向だ。こんな事実との関係を考えず、独立的に自然林を切るな、自然を守れという論理にはどこか矛盾がありすぎる。
だが、人間の豊かな生活に対する欲求が、このまま同じ傾向で続くなら残存する自然林は私の世代で消失してしまう。私は自然の実状については定量的に把握する方法を考えたが、その価値を定量的に表現する方法は分からない。私のような自然好きな人とは全く価値観を異にする人もいるし、又それは時代によっても大きく異なるだろう。現在に生きる人間の価値観と200年後の人のそれは大きく異なる事は間違いない。さらに自然、自然生態系は一旦消失したら再現がむずかしいし、「種」が消失すれば恐らく再現できない。200年後の人類もこの自然を享受する権利があるとすれば現在に生き
る人間が自らの価値観だけで自然を消失させることは、歴史的な視野でみれば犯罪である事は間違いない。
こうなればまたパラドックスである。野鳥や自然の保護活動など、もっと単純にやればよい。バ-ド・ウォッチングかなんか皆で楽しんだり、あるいはテクニカル・チ-ムなどで若い連中とまた無人島の探検調査や海外調査の協力などを通して啓蒙活動やるだけでも十分ではないか。パラドックスは続く・・・・。だけど根本問題は、事の本質は、誰が考えるのだろう・・・。
そのうち、近年になり残存自然林の減少傾向は著しく鎮静化してきた。それにこれはプロの課題だ。私なんぞたかがボランティアのアマチュア活動家だ。プロは凄い、なんとかなる。私は鳥の写真かなんか撮って楽しみながらやってればいい。私が力む事は何もない、肩から力を抜いて楽しめばいい。
この判断は誤りだった。近年になって日本国内の残存自然林の減少傾向が出てきたのは外で、つまり国外で森を切っていたからだった。確かに私達の生活は向上し続けきたのに、ツジツマが合わないはずだ。日本のプロ達も、あまりアテにはならない。せいぜいオラが村の森だけを見て世界を見てないのではなかろうか。マトモなプロならもう何処か、東南アジアか南米の森に出掛けて何か始めているはずだ。
いろいろな世界いろいろな業界を見てきたが、今の世にプロだと名乗る連中にロクなヤツラはいない。せいぜいムクドリの群をつくって重箱のスミでもつつきながら内部抗争でもやっているのではなかろうか。現に今の社会の諸問題を見れば分かる。それぞれの分野でプロが寄ってたかって、やってく
れてる結果がこうだ。ムムム・・・それともプロ・専門家・スペシャリストにはやれない理由があるのだろうか、今の世の中は・・・・。
話を戻そう。FAOの国連統計資料から前記のモデルを世界規模で調べてみた。結果はすでに、多くの人々や機関が言い続けている事と同じであるが、ただ自分の手でデ-タを収集・分析し、自分の関係する視点から課題を追った結果がそれらと一致した事がショックだった。
ある島に鹿が住んでいる。仮にその固体数を400匹としよう。毎年の気象条件により繁茂する植物の量、すなわち島の基本生産量は若干変化し、それを食べて生きる鹿の数も若干増減する。だが鹿の数はどのように気象条件がよくなっても二倍、四倍、八倍と増加してゆく事はない。なぜなら島の面
積が一定、有限であるから餌(植物)の生産に見合った個体数しか島は収容できない。そのために鹿の側にも、繁殖や闘争などの行動、あるいは幼獣・老獣等や冬季の死亡率などで個体数を適切に調整・維持するためのメカニズムが働いている。これは人間でいえば経済・政治・社会の調整機構だ。
今、地球上の人間の数は二倍、四倍、八倍、と指数的に増加している。人間が繁栄・増殖できる「技術」を身につけたからだ。だが、人間は増え続ける個体数(人口)を適切な数に制御するメカニズムを今のところ持たない。
また生産量を増加する「技術」を身につけたが、それに対応する個体数(人口)の適正なレベルさえ分からない。さらに地球上の全ての生物の中で人間、つまりヒト科の動物だけは世代当たりの資源消費量を、世代が代わるごとに増やし続けている。他の動物はよりよい生活を求めないし生活レベルの向上を求めなが、人間だけはますます資源を消費を増やしてゆく。
かくして、人口は指数的に伸び続け、一人あたりの消費資源も指数的に伸び続けている。だから人間全体が消費する資源の量はもっと急激な指数カ-ヴで増加し続けている。
だが、地球の表面積は一定である。基本的には島に住む鹿と条件は変わらないのであるが・・・。もしかして人間が必要とする面積は地球表面だけでは足りないのかも知れない。客観的に神の目で見るならば、いやもっと単純に生態学的視点で見た時に、人間のこの異常な繁栄・増殖は一体いかなる意味を持つのか、そこのところが分からない。
指数的に増えつづける人口と指数的に増えつづける人間の資源消費が地球環境問題の根源である。酸性雨、CO2、環境汚染、自然破壊・・等々は、しょせん、この根源課題の表象的な現象に過ぎない。この根源課題に目をつむり個別の課題を論ずるのはオロカなことではあるまいか?
今、騒がれている地球環境問題の基本的課題は全てココのところに在ると思うが、最も重要な点・注意を要する点は、人間がからんだ全ての問題が指数的に変化している事だ。そんな人間の動きは一向に変わりそうにない。
だから嵐は、意外に早く来るかも知れない。