2.適応のカタチ

 ここに一つの神話がある。ある世界の愛の物語だ。多くの愛がそうであるように小さな愛も互いの歓びが大きくなるほどに盲目に、愛そのもので世界が見えなくなった。見なくなった。見れなくなった。  
 賢明な者ならば、深すぎる情念の愛の歓びと理性のはざまの葛藤に苦悩するであろう。愚か者のふりをして身が滅ぶまで、甘美なうま酒に酔いしれて溺れ続けるのもよかろう。我が身を蝕む情念の愛を断ち切って、真実の愛を想うには勇気がいる。現代の人類と科学技術の関係だ。  
  
 現代の人類は自らが創り出した現代文明の中で大きな葛藤に苦悩している。  
 だがこの種の葛藤は、人類が文明を創り始めた古代からそれらしく有ったらしい。動物としての人間本来の生理はそれほど変わる事もあるまい。また群体として社会行動する特性も基本的には同じだろう。だが、この「種」は何か新しいことを創り出し、行動のカタチを変え、自らが行動する環境を変化
させてしまうという特性がある。  
 時にはその環境変化は他の部族からもたらされた宗教文化であったり、他民族とのなんらかの接触により変革された文明であったかも知れない。そのような急激な環境変化に遭遇し、新たな環境に順応・適応する過程で、人は変化した環境に対峙したり葛藤を持ったりの苦悩があったらしい。世界のど
の文明、いずれの地域にも必ず在った神話が、それを物語っているという。  
  
 木村由実子はオリエント、エジプト、ケルト、ゲルマン等の神話を研究し、その中で現代にも共通する要素を抽出し、現代の人類が対峙するテ-マを現代版神話としてスト-リ-をまとめあげた。それを私と共作でコラ-ジュ写真シリ-ズ”LaFantagiadiRAPACI”で表現した。トリノやアオスタの州立美術館での個展(二人展)などでは、新聞・TV・美術誌などマスコミをあげて関心を持たれたのは、このテ-マが今や世界共通の課題である事を意味しているのかも知れない。勿論、彼女の意表をつく彫刻・造形と、コラ-ジュも企画のユニ-クさが在っての事ではあるが・・・。  
 この展覧会にはたくさんのの普通の人に来てもらい、この現代の課題の深さを普通の人に理解してもらった。イタリア人は感受性が強い。毎日、多くの人が来て、中には涙を流す人もいるから困る。神話が持つ詩のような要素は残すべきだと考え、ここで私達の作品の解説をするつもりはない。ただ、
この現代神話ラ・ファンタジア・ディ・ラパ-チの最終段に、「明日へのわずかな間隙」というのがある。  
  
 現代の科学技術は個々に見れば皆、人類愛に満ちたものである。だがその個々の愛、全てをまとめてみたとき、とんでもない怪物の姿になりつつあるのではないか?・・・と、言うのが現代の葛藤である。  
 個々の盲愛の重なりが形作る情念の愛の暗闇の中に、理性の剣で切り開らかれた僅かな隙間を脱出口に、人類の未来に可能性をつなぎ得るか・・・・というのが「明日へのわずかな間隙」のテ-マである。  
  
 これに続く作品・「神託」は、彼女の意図によれば以下のように展開する。  
  
 現在の問題を、例のシカの生息数が限りなく増え始めた島のモデルに例えてもいい。また、ノアの方舟の上で飼っている家畜の数が急に止めどもなく増え始めている状況に例えてもいい。また一頭当たりが食べる飼料(資源)が、なぜか日増しに増え続け、おまけに排泄物でやたらと辺りを汚しまわる。
  
 とにかく、このような情景を思い浮かべればいい。ただ増え続けているのがシカでも家畜でもなく人間で、増えてゆくエネルギ-は文化とか文明とか、情念の愛とか、そんなものである・・・と思えばいい。これが現代の神話の背景にいる主役であり、バケモノ・悪魔の正体である。  
 彼女によれば、昔の神話が託す啓示の中に、自然や人々の平和・安寧を乱す魔物や悪霊を鎮めるために、神が彼等に一定の領域を与えその中に彼等を封じ込める話が世界中に残っているという。  
  
 ”LaFantagiadiRAPACI”の現代神話の中での木村由実子のスト-リ-展開も古代からの神話が託す啓示に従ったものである。即ち、我々人類が飼い馴らしてはきたが、今や我々の手には負えない程に巨大化し暴走しつつある、現代の科学技術や文明を一旦一定の領域の中に封じ込め、真の理性と愛の視点からその飼い方を、付き合い方を考えてみよう・・・・という提案である。  
  
 ”LaFantagiadiRAPACI”現代神話の啓示  
  
 「西暦2000年を機に、”ヒト科動物”が利用する地球表面の面積および使用する資源を一定にする。この事を”ヒト科動物”自らが宣言するものである。」  
  
 この領域の中において、すなわちこの前提の範囲内において人類にはまだ、自由に選択できる余地が残されている。  
 先ず大きく見ると、人類が人口増加の継続を望むならば人は一人当たりの消費資源の分け前を減らしてゆくか、やはりより豊かな生活・資源消費を増やしてゆきたいならばその分、人口を減らしてゆくかの選択がある。  
 前者の立場を採れば、人一人当たりの資源消費をだんだん少なくガマンの倫理や社会規範・文化を創りだす”作業”が必要であり、後者の立場に依れば、生命倫理や人権・人間愛などについての伝統的な価値観・倫理観を改めなければならない。  
 もう一度、科学技術と知恵を駆使して資源のリサイクルやヒト科動物の使用が許される範囲内の資源や土地の利用効率を抜本的に向上できる、本質的なテクノロジ-を創り直すという選択肢も残されている。  
  
 国連や国家の施政者も、企業や団体など社会の指導的立場にある人達も、また科学者・技術者も、宗教・文化・その他のあらゆる活動をする人達も、今度は自分の分野・立場だけからの思考や行動はできない。全体のカタチが与えられたのである。   
  
 これまでの人類は、自分たちの周囲は無限に開かれた世界であると考え、行動してきた。この試みは、人間に「閉じた世界」に順応させる事が可能かどうかの実験のようなものである。だが人類が将来とも健全にこの地球上で生存し続けるための、最後の試みであるかも知れない。地球の生命系・生物
系の中でヒト科の動物が存在するに価するか否かの・・・・。  
  
 現代の人類が抱えるこんな問題も指摘するだけなら誰でもできるし、そんな評論家なら世にゴマンといる。私達は、その具体的な解法を一つでも得て、実現したいと思っている。幸い、私達の個展(二人展)の度に同調者達のサロンもできつつある。明日が見えるか?