第Ⅷ章LaFANTAGIA 1.明日という世界

 趣味が多いと人はいう。だけどいずれも、付き合ってくれる相手を必要とするものでも、大金を要するものでも、仕事や家庭サ-ビスをサボるものでも、他人や環境に迷惑をかけるものでもないので人畜無害だ。ならば趣味は多い程、いいではないか。  
 そんな趣味の一つが「雲を見ること」である。まるで雲を掴むような趣味ではあるが、これが本当に楽しい。雲の種類やその季節の変化、時間帯やその時の天候・光線の具合で千変万化する様子を楽しめるようになればこの趣味も一人前だ、と自分では思っている。  
 同じ積雲でも地域よって微妙に形が違うし、見る場所によって印象が大きく変化するのも不思議だ。とりわけ空が大きく開けて見える場所で見るのがこの趣味の一番贅沢なやり方で、そこに風の音とその風景に合った音楽でもあればその上はない。私は昔、ペンテル・クレヨンの上箱に描いてあった広
い風景とその雲に魅せられていた。当然、12色より24色入りの箱のほうが空が広いし美しい。誰か友達が、それ以上に多色のクレヨンを持っているとその箱ゆえに、羨ましく思ったものだ。彼なり彼女の方が広い空を持っている。  
 バ-ド・ウオッチャ-が時には写真を撮りたがるように、私も雲の写真を撮りたがる。特に飛行機に乗って、自分の目の位置が雲の高さと同じレベルにある時に撮るのが好きだ。なかでも飛行機が着陸体制に入り乱気流にバウンドしながら積雲の谷間や頂の辺りを水平に飛ぶ間が最高である。  
 その位置はちょうど自分自身が雲であるか、あるいは雲の谷間を通り抜ける風になり切ったか、はたまた空高く帆翔しているワシやタカのような気分に、一瞬なりきれる高さである。  
 私はこの趣味だけのために、いつも空港にはチェック・イン開始前に到着していなければならない。   
 航路上の光線の方向を考慮した前方の窓側の席を確保するためだ。何十回、何百回と飛行機に乗っても、はじめて飛行機に乗る人のように私は毎回チェック・イン・カウンタ-に一番に走り込む。「前、
左の窓側!」そして飛行機が飛んでいる間、窓に張りつくように顔を寄せ外を眺め続けるこの習性は一生、変わらないだろう。  
  
 日本に一時帰国した。4年半ぶりに東京から九州までの空を飛んだ。秋から冬にかけて、この上空の色は紺碧であるはずだ。だがなぜかくすんでいる。  
 これだと上空の巻雲の白さも美しくは写らない。モノクロ・フイルムで巻雲の美しさをだすには、バックを黒く落とせる紺碧の空でなければならない。  
 復路も同じだった。後で知り合いのパイロットに聞いてみたら、このところ中国か韓国の大気汚染のせいらしくいつもこうだ、と言う。  
 そういえば飛行機から見下ろす地表の様子もなんだか変だ。私が始めて飛行機に乗った20年前に較べて何かが変わりつつある。こんな期間は地球や自然の歴史、否、人類の歴史から見ればほんの一瞬だから、変化の速さは急激だと考えざるを得まい。人類にとってのこの変化の意味は、巻雲が浮かぶ位置からでなければ、人間が住む地上からでは見えないのかも知れない。  
  
 地球上の環境は絶えず変遷・変化してきた。例えば気候や天候も短周期的にも長周期的にも変遷推移している。長周期的に見れば、ある時には氷河期と呼ばれる寒冷期があったり、また逆に温暖期があったりの変遷があった。  
 周期を小さく見れば年周の季節変化や日周の変化の中で、気温があがったり雨が降ったり風がふいたり乾燥したりの変化が見られる。  
 このように変化する環境の中で生物生態系は適応と淘汰を繰り返し「系」として存続してきた。すなわち、環境変化に対して自らの行動や生理を対応変化できた「種」はその後も存続できたが、適応できなかった「種」は淘汰され地上から消えていった。生物生態系は、あたかもそれ自体が意思を持っ
ているかのように、自らの調整を行って存続してきた。  
  
 さてそんな中で人類だけが特殊な進化を遂げ、人口増加と資源占有の大繁栄を続けつつある。その過程で今や、人類は自ら環境を変化させ、その環境変化や大繁栄の行き着く先も見えないようだし、変化の制御も出来なければ適応のカタチも分からない。  
 こんな状況を悲観的観測からは、人類の繁栄はもはや地球のキャパシティを越えていて、この地球系を健全に保てる可能性はすでに残されてはいないと言う。  
 楽観的な観測からは、我々の科学技術は無限であり地球の収容能力そのものさえ、造り変える事ができると言う。悲観論が心配する終末論は人類の文明史のどの時代にもあった。100年前にも同じような世紀末論があったがその後、何事もなく人類はちゃんとやって来れた・・・と言う。但し、「何
事もなかった」という言には、戦争という系バランスの調整機能も含まれているらしい。  
  
 私には楽観論者の考え方は、無責任極まる意見としか思えない。なぜなら端的に例えば、人口増加の制御や資源対応などに対する具体的方法の提案は何一つないまま、科学や技術への単なる期待だけを拠り所にした意見が多いからである。少なくとも指数的に推移・変化している現在の人類全体の活動デ-タから傾向を見る限り、明日は暗い。  
 自らが創り出している急激で大きな環境変化に対し人類は、適応の知恵を早急に得る努力を始めるか、さもなくば淘汰の選択を早晩迫られる事になるであろう。人類レベル、民族・国家、企業や集団社会、個人レベルなどあらゆる断面でそんな選択を迫られる事になるであろう。つまり、理性的手段に
依る「適応」を考えるか、あるいは戦争・人口削減という手段に依る「淘汰」を考えるか、先ずこの究極の選択肢が私達にはある。いずれも対応が遅れれば遅れる程、大規模な対応になる。  
  
 だから、ここで「適応のカタチ」を想像してみる事も無意味ではあるまい。  
 私達、一人一人も「ヒト科動物」の一個体である。その一つの個体として、「生存を享受する権利」もあれば「種または系の安定維持のために果たすべき義務」もあろうから・・・・。