イタリアで一番大きな湖、トラスメ-ノ湖はペル-ジアから20Kmも離れてはいない。
その湖畔の丘の斜面を上り詰めたところに教授の別荘はあった。ビアンカは来なかったがクラスの例の仲間達と私のパラッツオの住人達がやって来た。全員で約25名はいる。部屋は10以上あり、ベッドは全員分は無いものの、この季節はシ-ツか毛布が一枚あればどこででも眠れる。広々とした別荘だ。クルミやヘ-ゼルシイの林に囲まれた敷地はちょっとした学校くらいの広さは優にある。それは幾重ものなだらかな起伏のある牧場の丘陵地に連なり、その草原を風が渡って行くのが見える。斜面の西側には広々とトラスメ-ノ湖がひらけている。岸辺には日本と同じように葦原が続き、連絡船が通う島があり、その背後には対岸が見えないほどに湖水の広がりがある。
敷地の中を歩きまわると、木の香り・草のにおい・花の香が次々と新たな刺激で鼻孔をくすぐる。ペル-ジアに来て久しぶりの自然回帰に誰もが生き生きとはしゃぎまわっているようだ。
大所帯でしかも13ヵ国からなる多国籍集団ともなると食事の準備も大騒ぎになる。こんな時にも禅僧ダイアン氏は丸いアタマでコマメに動き廻り実にうまく取り仕切る。おかげで昼食もなんとかマトモにできた。
午後のティ-・タイムにむこうのブドウ棚の下のテ-ブルで何やら騒ぎが起こっている。メラニ-とマ-クがやり合っているようだ。まだ「ウサギの
餌」の続きでもやっているのかと近づいて見ると、激論中の二人の間に少年ミ-がキョトンと座っている。ミ-は15才、身体が小さいので10才にし
か見えない。私のパラッツオの住人共有の弟みたいな存在だが、タイの金持ちの放蕩息子で放蕩が過ぎて、せめて好きな絵の勉強にとイタリアに出されたようだ。
話を聞いてみると、騒ぎの理由はこうだ。そこで三人はお茶を楽しんでいた時、ミ-が音をたててお茶をすすった。メラニ-は弟のようなミ-にお茶
は音をたてて飲むものではない、とマナ-教育を始めた。そこでマ-クが、
「東洋には東洋のマナ-がある」
と議論になったようだ。この二人の議論はスザマしい。両親の夫婦ゲンカの間に放り出された子供のようにミ-はただキョトンと座っているだけだ。
むこうの大きなクルミの木の下、木陰のベンチではフランクがギタ-を弾き、コンスタンス・ユミコ・モニカ・フランチェスカ達がなんとかハモらせ
ようと歌をうたっている。
そんな午後だった。
午後遅く、夕立がやって来た。すざましい雨足だったが、地上の埃を洗い流すとピタリと止んで牧場の丘に大きな虹がかかった。夕暮れの頃にはその積乱雲は、はるかアペニン山脈のかなたで色づいていた。そして夕食が終わる頃、大きな丸い月が昇ってきた。
私達はテラスにピアノを運びだし、皆で歌をうたったりした。皆それなりに楽器をやる。ピアノ・ギタ-・フル-ト・ハ-モニカ・バイオリン・・・
音楽はいい。ただ聴いているよりみんなで一緒にやるのがいい。そうしているうちに、この多国籍集団がず-っと以前からの家族でもあったかのような気になってくる。
この日の午後に教授が連れてきた日本人のN神父には、その道の人らしからぬ快活さがある。皆が疲れた頃に彼がピアノで弾き始めた月光の曲は絶品だった。満月の光がクルミの木立から抜け出しテラスいっぱいにさしこんできたので、灯を消して彼のピアノを聴いた。曲が終わったちょうどその時、月は一塊の積雲の中に入った。誰かが灯を点けた時、彼はいきなりモダン・ジャズを弾き始めた。少しでもジャズに興味を持った者なら誰もが馴染んだ60年代のヒットを次々に弾き出してゆく。ジャズ・ピアノを弾く神父。聞けば、ディスコにも時々出掛けるとのこと。素晴らしい事である。世俗を離れた宗教者が人を救える筈がない。それでなくとも世の文化はめまぐるしく移り変わっているのだ。彼ならば多くの若者
達の心を救えるに違いない。
夜だというのに空が青い。こんな夜空、以前にも見た事がある。確か6才か7才の頃、あの時も雨上がりの空だった。青い夜空に積雲がやけに白く、ポツン・ポツンと浮かんでいた。ちょうど今夜のように。
さて事件は皆が寝静まった頃にやってきた。
私はラルフやマ-ク達と裏の納屋で古いソファ-を引っ張り出して眠っていた。と、誰かが私を揺すって起こそうとしている。「起きてよ!ヒサト」
意識の底から、懸命にしがみつくように私を眠りから覚まそうとしている。ラルフもマ-クもいるだろ!あっちに行けヨ。彼等も目覚めないようだ。だんだん意識が覚めてきた。柔らかな女の子のにおい。フランチェスカのようである。朦朧とした意識のまま聞いた。
「どうしたの?」
「とにかく来てよ」か「助けてよ」か何と言っていたのか分からなかったが、どうやら裸足でかけて来たらしい。「あのオジイサンがしつこいのヨ」こんどは聞き取れた。眼が覚めてしまったのだ。聞いてみると、あの老教授がしつこく彼女を口説いて眠らせてくれないのだという。「まさか・・・・!」
私は彼女の後についてピッコラ・カメラ(小部屋)に行ってみた。小さなベッドにテ-ブルを挟んでソファ-が二つ。教授はその一つに座っていた。
「ヤア-、インジニエ-レ!まだ起きていたのか」あまりにアッケラカンとした教授の態度と安眠を破られた不快さに少々イラついて、私は言った。
「アンタ、ひどいじゃないか!」その時の気持ちを込めて口語訳すると、こんな口調になっていた筈である。私は続けた。「こんな孫のような小娘を口説くなんて・・・・。それにアンタ、神学の先生だろ?」
彼は落ちついて語り始めた。
「私は彼女と人生について語り合っていた」
口説いているなどとは勿論、言わなかった。
「君はワシやタカの研究をしていると言ってたな。私も若い頃アフリカにいて、そこでヒョウやライオンを見ていた時代があった。ライオンのオス
は生きてる限り、敵と闘い・獲物を襲い・メスを支配する。死ぬギリギリまでそうする。それが生きると言うことだ。その一つでも出来なくなるともう
生きる資格はない。コロリと死ぬのだ。ところでワシやタカの世界ではどうかな?」
光線のせいか、この独身の老教授が20才も30才も若く見えた。神経痛もちの老人にはとても見えないキリリッと引き締まった顔に見えた。
まいったナ~。これは確かに一人の人間が生きている時の顔だ。人間60才になれば枯れて落ちつくのが良い、というのはただの固定概念かもしれないし、時に偽りの概念かも知れぬ。
55才で会社の定年、60才で人間の定年と何も固定的に考えることもあるまい。今や人間社会も円熟してバラツキ(バリエ-ション)も大きくなっ
た。一方で40才で実質老人がいれば、70才で実質青年もあるかもしれぬ。年齢なんて、単に生まれてからの時間を表しているだけではないか。その人の価値や能力、性能を表す指標ではないはずだ。物事を平均的に考え行動することは本人にとっても社会にとっても不幸な事になりそうだ。これからの時代、益々そういう事になりそうだ。
いま目の前で、彼もこの歳になってもマジメに人生を生きている。神学の教授だ。そのカタチがたまたまこちらのモノサシと違っていたってどういう
事でもなかろう。世の中の現象がかくもダイナミックに変化してゆけば、人の生き方もダイナミックになるはずだ。生きる事に公式はないのかも知れない。与えられた公式をただ、正しく解くだけが、誰かが解いた答えに従うだけが美徳でもなかろう。人の世界は変化している。その公式が間違っていたら私の人生どうしてくれる。神が人生の時間を与えたもうたのだとしたら、与えられた自らの時間を解く自らの公式を自分で考えて生きるのが、神の愛へ応える事ではなかろうか。
話しているうち、私も何かから解放された。私も自分の人生の時間が許されている限り、できることなら死ぬギリギリまで可能性を追ってみたいものだね。何才になっても「落ちついてたまるか!」
教授!カッコイイ爺さんだ。二人におやすみを言って、私は自分のねぐらに向かった。彼は暴力をふるうことはしない。フランチェスカも本当にイ
ヤならば、ユミコとモニカが眠っているベッドにもぐり込めばよい。
夜空はますます青く、地面に木々の梢の影をクッキリと落としながら満月は頭の上にあった。
7.カルドッチ公園の夕暮れ
夕暮れ時、人々はカルドッチ公園に集まる。そこはこの町の西の端、丘の上のペル-ジアでも一番遠くまで展望がきく場所である。向かいの丘のサン・ドメニコ教会の高い鐘楼がすぐ目の下に見える。幾重もの起伏を丘と呼ぶべきか山と呼ぶべきか、延々とティレニア海の方まで続いている。何よりも夕暮れの空が広々と見えるところがいい。
家族連れや恋人達、子供も老人もペル-ジアの住人だけでなく旅行者も留学生達も皆、この広場でたむろしている。夕暮れはなぜか、人をいろいろな思いにはしらせる。私も夕暮れの空には特別の想いがある。
子供の頃、父は趣味でハンティングをやり、時々カモ撃ちに行っていた。ときたま獲物があってマガモなどを持ち帰ると、見る角度によって色が変わる不思議な青い金属光沢の風切り羽根や首筋を飽きずに眺めまわしたり、またつややかなカモの胸をいつまでも撫でまわしていたものだった。そして、その度に、カモ撃ちに連れて行ってくれとせがんだものだった。
6才の時か7才の時か定かではないが、父はとうとう私をカモ撃ちに連れて行ってくれた。夕暮れ、小さな山を幾つも越えた山の中にある皆が「竜ガ谷」と呼んでいた池のほとりに、父は私を連れて行ってくれた。池の水草が乱れて浮いている。それが昨夜カモが来た証拠だと教えられた。父は木の枝を払い、身を隠す小さなハイド(隠れ場)を作り、その中で私は父の後ろに小さくなって座った。
じ-っと身動きせずに口もきかずに待った。ずいぶん長い長い時間が過ぎていったように思える。カモは待っても来ないこともある。そんな状況で静かに身動きせずに待つ時間は、その歳の子供にとってはあまりに長く感じられるものだと思う。
とうとう私は父に言った。「もう帰ろう」私が退屈していることは父には分っていた。そして父はただ次のことを言った。
「いいかい?あの池の水面に写っている夕空を見ていてごらん」
小枝を重ねたハイドの入口の隙間から見える水面に、夕焼けの空の一部が写っていた。
「あの空を見ていてごらん。どんどん色が移り変わってゆくから」
そう言われてじ-っと眺めた。この位置でこの状況で見れるものといえばただ、それだけだったのだが。
赤いという色も、青いという色もこんなに沢山あるものなのか!、空の、まだ青い部分から、雲が赤く染まっている間の微妙な色の移ろいや、時ともに穏やかに移り変わる色のかたちの美しさを見る楽しみ方を、父は数少ない言葉で教えてくれた。
その時以来、私は夕暮れの空に凝っている。
歓びも美も目の前には沢山ある。見つけ出す気さえあれば・・・。それは、時には昼間の空に浮く雲の形や路傍の野花、足元の落ち葉の網目模様に、空飛ぶ鳥の翼の形に・・あの時以来、見つけ出した歓びの数も増えてきた。さらには音楽の音・リズムや詩の言葉がもつ不思議な色や形さえも追えるようなってきた。工場の中の飛び散る火花や灼熱の鉄の色、設備の形にも美を見い出す事もできる。今、自分なりの美や歓びのカタチを私は楽しむことができる。
この頃、父はすでに60才を過ぎていたはずだ。この言葉はそんな父が私にしてくれた大きな遺産になった。それからもう一つ、やっと物心がつい
た私に父がいつも言い聞かせてくれていた言葉もそうだ。
「私は年だ。いつ死ぬか分からぬ。だからいつでも一人で生きてゆく事を考えているのだよ・・・・」
やがて、本当にそうなった。
夕暮れの空は、何十年経っても私の中で新鮮だ。
8.サン・フランチェスコ教会
ル-ジアの中心部の東側に市場がある。その雑踏を通り抜けるとテラッツアという屋外バ-ルがある。日中は閑散としているが、夕方、市場が閉まった後はこの見晴らしが良く風通しのよい屋外バ-ルが昼間の市場と同じように混雑する。それでもコ-ヒ-なり、ビ-ルなり飲みながら、友人と語り合ったり、一人物思いにふけったりするのにもいい。ここからは、遙に東の方向が展望でき、大平原のむこうにアペニン山系の山々やその山麓に点在するいずれも古い歴史をもった集落がかすかに見える。そんな中でひときわ大きく見える集落がアッシジである。聖フランチェスコ(フランシスコ)が生まれ育ち、その物語の場となった町だ。
人生の付録のような、このペル-ジアでの学生生活も残すところ僅かとなった最後の休日にアッシジに行ってみたくなった。バスで40分も乗れば、着く。外側から見ると長い回廊が美しいサンフランチェスコ教会、その礼拝堂にはジョットを始め名の知れた画家のフレスコ画がある。多くの教会のフレスコと同様にここでも「最後の晩餐」は重要なテ-マである。その絵の中で、赤ワインと共にキリストが弟子達に与えるパンに、私は特別な関心がある。
私は物心がついて、それなりに幸せな環境で育ったが、物質的には決して恵まれていたとは思わなかった。だが周りの人達も皆、同じようなものだった。遊びも自分たちで見つけ・工夫して楽しんだし、どんな小さな音楽でも人はいつまでも大切に歌い続けていた。そんな時代環境であったのだ。
時に空腹でもあった。
そんな時、誰かがパンを買ってくれる。今の水準から考えれば、けっしておいしいものではなかった筈だ。それを、時には兄弟で二つに分けた半分のパンを大切に味わって食べた。あの美味しさは今も忘れない。
そして今、私達のまわりにパンは溢れている。今やパンを与えられても人歓びを見い出せない。あの時のパンに較べ何倍もおいしくなっているのに。
パンから導き出せる歓びの量が減っただけではなかろうか。現在、私達の社会は物もサ-ビスも十分行き届き、溢れ返っている。現代の私達の文明、人間の苦しみや痛みを一つでも少なく、歓びや快適さ楽しさを一つでも多く、と科学や技術を努力して発達させ、私達が得たものだ。
だが人間の生理機能や心の機能までは変ってはいないし、変えられない。もしかして、どんなに便利で快適な環境に変えたとしても、私達の心が秤る歓びの量と苦しみの量は変わらないのではなかろうか?だとしたら、あの時のパンのままで良かったのではなかろうか?
「物」を追えばきりがない。手に入れるまでは夢や憧れであったとしても、それを手に入れ瞬間に夢や憧れは消えてしまう。また次の、追い求めるべき夢や憧れを創り出してゆかねばならない。
一体、人はどこまでそんなモノを追い続けるのだろう。
もう十分持っているのに、人はなぜ隣の人と比較してもっと持ちたがるのだろう。
もう十分お金がある人が、なぜまだ「金儲け」にこだわるのだろう。
あのフレスコ画に描かれている、キリストが自らの肉として差し出されているパンの意味は、そんなことだと語られているように思えてならない。
アッシジは古い町である。建物も道も階段も近くの山で切り出した石で造られている。何百年もの間、この路地も広場も風景を変えてはいない。
昼下がり、人通りが絶える時間帯はどの通りも陽の当たる部分と日陰の部分のコントラストが際立ってくる。ア-チ型の門の向こうに広がる大平野、揺れるチェリ-の青葉、白い風景に青い空・・・ここに住んできた何世代もの人々が同じように見続けてきた美しさだ。
どこかでフル-トを吹いている。昔二部の大学生だった頃、夕方に疲れた身体を抱えてキャンパスに着くと、いつも誰かがフル-トの練習をしていた。この曲、’エストレリ-タ’だった。あの時も今も、どんな名奏者のコンサ-トよりも美しい曲に聴こえる。彼か彼女かが練習を止めるまで、この日陰の石段に座り込んで聴かせてもらおう。
また夕暮れが近づいてくる。
9.一億円と十人の子持ち
これはペル-ジアの時代からしばらく経ってからの話である。
このところ日本の経済成長率が著しい。日本の円が強くなりドルに対する為替レ-トがみるみるうちに2倍近くなった。日本国内に住んでいた間は、為替レ-トの急変が直接私生活に影響することはなかったが、海外に住んでみるとモロに影響を受ける。例えば、海外で支払われる給与がどの通貨であるかによって生活は左右される。私は事情があって日本を出る時、なけなしの金をドルのT.Cに変えて持って来たが、その実質的価値があっと言う間に半分になってしまった。お金にはあまり固執しない生き方をしてきたが、このように直接的な影響を被るようなら、もう少しマジメに経済の勉強などをしておく必要性を感じる。
だがこのところの日本経済の過熱は何だろう。まるで日本人全員がカネ、カネ、カネ・・・・と叫び続けているようだ。大阪や三河などの商人文化が
栄えた地域は別にして、かっての日本人はこのようにモロにはカネ、カネと口には出さなかったように思う。かっては、少なくとも「金儲けの仕方」などという言葉が本のタイトルになるような事はなかった。
このような風土・文化が出来上がったのはのには、それなりの環境変化があるのかも知れない。
私の周りの日本人にも株をはじめいわゆる財テクをやっている人も多いようだ。もうじきこのロ-マにも日本の証券会社が進出して来るという。今やこの地でも財テクとゴルフの話題がなければ、日本人の群社会に入れてはもらえない程の勢いである。
そんな中で当然の事ながら私にも誘ってくれる人もいる。勿論、純粋に親切心からではあるが、私はどうもエタイの知れないものはあまり好きでな
い。財テクとは言うがテクノロジ-ではある筈がない。何も生産されるものもなく株・証券の売買を繰り返すだけで付加価値を生み出す筈がない。
資本主義の経済システムを生態学的に見て、最も病的な部分が投機ではないかと思う。土地にしろ株式投資にしろ本来運用の動機を越えて、機的に繰り返し回転させるだけで虚像的な価値を生み出すシステムは病的に見える。
この回転を支えるエネルギ-は人間の欲望であり、自然生態系のシステムには少なくとも存在しない要素だ。こんなキッカイなシステムが機能している限り、ヒト科の生態系・人間社会は健全に発展できないのではないかと思う。
現実にこれで財をなしている人も多い。
「君の蓄え、いくらある?」と問われ、
「年間所得ほどもない」と答えると、
彼は親切に助言してくれる。「まだ、その歳だったらしかたないが、男も50才にもなれば1億円位は持っていないと老後が心配だぞ!」
とんでもない。私などその年頃までに日本で家でも建てていれば、借金がその程度はあるかも知れない。彼はお金の大切さをしきりに説いてくれる。それは私だって、お金はあった方がいい。だけど今のところ困ってはいない。それに、いろいろな人生観があってもいいではないですか。
親切な助言も度を越えるとイライラもので、とうとう私は言ってしまった。
「あの~、バングラディッシュとかインドでも同じようなことを言っているようです。なんでも男も50才までには子供を十人位は持っていないと老
後が心配らしいそうです」
「では君は、どうやって老後を優雅に生きてゆくのだ?」
「働くのです。人間も鳥や動物と同じようにこの世に生きている限り、ギリギリの瞬間まで働くのです。そして社会に役立たなくなったらコロリ
と死ぬのです」
自然の生態系では、系での役割・義務が果たせなくなった瞬間、生きてゆく権利を失う・・・と言うような話をしながら、私はペル-ジアの老教授の
事を思い出していた。今も元気よくやっているだろう。
「人間も社会に役立たなくなると、自然生態系のように生きる権利を放棄するのが美徳かもしれない」と、私は付け加えた。
彼は反論した。「いや、私のお金が社会の役にたつ。このお金を通して私は十分、社会に貢献できる」
私はこう締めくくった。「いえ、あなたがその時社会に一番貢献できるやり方は、そのお金を残して早く死んでくれる事ですよ・・・」
彼は二度と私にマネ-・ビルを勧めることはなくなった。
10.換羽の季節
秋になりブラッチア-ノ湖にまたマガモ達が戻ってきた。エクリプスと呼ばれる夏の間の地味な羽色からオス達はあの輝くような繁殖羽根に換羽の最中だ。もうじき彼等が輝くシ-ズンである。
アルプスのゴ-ルデン・イ-グル達は羽色を一年一年変えてゆく。翼の白斑や尾羽根の白い部分が年々消えてゆき、頭の頂から後頭部にかけての文字通りの金色も年々深まってゆく。換羽のたびに行動が、擬人的な目で観れば生き方が、深まっているように思われる。
人間にも人生のどこかにシ-ズンがあり、鳥達のように換羽をしたり昆虫達のように脱皮したりして生き方に変化が起こるように、人生にケジメのようなものがつく瞬間があるような気がする。
私の場合、それは人や出来事との出会いのようなものだと思う。それも偶然にやってくる。先ず、私という自我がこの世に生まれてきてきた事自がそうである。人生半分運である、と思う。その半分までは自分の努力や能力の及ぶところではない。だが、何事もこうマイナ-に考えるのではなく、出会った出来事なり人なりの偶然の結果(運命か神かの思し召しかも)を基に、’さ-どうやるか’と自己を試すのであろう。毎日出会う偶然はいい事ばかりでもないし悪い事ばかりでもなさそうだし、また自分にとって重要なのにその意味さえ気づかずに通り過ごした出会いも多いと思う。
そんな中で、それまでの生き方・考え方を強烈に変革させてしまうような人や出来事との出会いもある。鳥達が換羽をするように昆虫達が脱皮をするように、その時から人生の時間の質が変ってしまう。それは生きてゆく上でも、会社員としての仕事の上でも、趣味なり社会活動においてもあった。
例えばワシ・タカ・ハヤブサの写真を撮るという私の趣味に限っても、そんな偶然の出会いの結果があり、それを基にそこでの生き方にシ-ズンが在った。
鳥との関わりは、先ず父が趣味でハンティングをしていた事から始まった。物心がついた頃からその獲物を通して鳥の色や形に強い興味を持った事に起源はあると思う。その父がある日、「もう殺生はやめよう」と突然に銃猟を止めた。止めた動機に何があったのかは知らないが、その後はただ犬を連れてただ鳥を見るためだけに、私を連れて山に行った。野鳥の会やバ-ド・ウオッチングなどという洒落た文化など私の故郷ではまだなかった時代である。
父はその後、間もなく世を去ったのでその心変わりの理由を知る機会は無かった。
以後、ボ-イ・スカウトや山岳部等で自然との関わりはあったが鳥への関心が特にあったわけではない。
20才前後の頃、その時代の他の多くの若者達が政治活動やなんらかのグル-プ活動に熱中する中で、私はモダン・ジャズやシュ-ル・リアリズムの芸術などに凝っていた。凝るのである、徹底的に私は凝るのである。そして疲れるのである。そんなある日、「現代詩」という雑誌に川崎洋という人が「鳥」という詩をかいていた。やや暗いが、ナイ-ブな詩であった。それこそ自分が書きたかった詩であった。もう自分で詩を作る意味はない。だからもう自慰的詩作もシュ-ル・リアリズムもジャズも止めた。
だがこの詩は、ある事を気づかせた。一つは「鳥」そのものである。自分にとって「鳥」そのものが何か特別の意味を持っているような気がした。そ
して次に、その鳥との関係を詩以外の何らかの方法で持ちたいとの強い願望が身体の芯から湧き出てきたのを覚えている。
絵か?絵で表現するか。やりたいが、今からすぐには間に合わない。では、もっと直接的に表現できる方法は?写真だ。これが自分に最も近い。
大金をはたいて望遠レンズを買った。野鳥の写真を黙々と撮り続けた。昔、父について野山に鳥を追っていた子供の頃の勘と経験が役にたった。楽しかった。人生のシ-ズンが変わったようだった。
だが何事も我流には限界がくる。行き着いてしまう。撮る野鳥の写真も、もうマンネリだし、ただ野鳥の写真を撮り続けても何になる・・・。そんな
時、生物学のK教授の指導で、数人の野鳥生態研究会を創った。だんだん活動は発展して、多くの人々が参画するようになり活動の幅も広がり、今の日本野鳥の会のような団体が私が住む地方にも出来上がってきた。
自分が撮った野鳥の写真も自然保護の啓蒙や生態研究の意味では、少しは役にたった。だがこの活動で楽しかったのは、それまでに較べて多くの人々との出会いがあったからだ。多種多様な人々が集まれば間違いなく視野が広くなる。
とりわけ、生態学的研究をやっているグル-プとの関わりは特別だった。
例えば、ある無人島の探検調査に行く場合、その計画段階ですでにすざましい激論になる。自然保護のボランティア活動とは、自分でお金を出して危険な無人島等で仕事をする活動である。参加者は職業・職種も多種多様であり、行動も考え方も全く違う。「へ~、公務員はこんな考え方をするのか~、あの分野の人達はこんな選択をするのか~、こんな理論・こんな技術があるのか~」とか、とにかく人生の視野を拡げるのには十分な環境であった。
探検とは、私は以下の条件での活動だと思っている。
①先ず、目的があること。単に好きな野鳥を見たり写真を撮る事が目的ではない。
②次に、未知であること。目的とする内容が未知であり、その目的達成のために未知な部分の調査や研究に行くのだ。
③ある程度、危険が伴う事。観光地に旅行にゆくのではない。だから事前に十分な訓練などやる必要がある。
④目的達成のための方法論があること。理論も技術も全て準備できてる事。
好きな事とはいえ、自分のお金をだして難しい理論の勉強をし、激しい訓練をするのだ。皆が一生懸命にならないはずがない、激論もケンカもあった。
だから、面白かったし自分の視野・視点を大きくできたような気がする。勿論、人生的にである。
ず-っと後に、日本野鳥の会の若者達を集めてテクニカル・チ-ムというグル-プを創ったが、それはこの時の活動の延長上のものである。国際協力をやるレベルにまで到達した。若者達に理論・技術とロマンの場を与えた活動であった。彼等にとって人性的な経験になった事は疑いない。
話しを野鳥の写真に戻そう。単に野鳥の写真を撮るだけでも、そんな活動での経験や知識はベ-スになる。だが、そこでも再び限界はくる。活動が地方から日本野鳥の会へと、全国的な活動へと移ってゆくと人との出会いの機会も増えてくる。ある時、日本の野鳥写真の草分け的な存在の高野伸二さんと佐賀平野にカササギの写真を撮りに行った。その後も何度か海や干潟にご一緒した。
私が最初に買った野鳥の写真集も高野さんのだし、その後も出版される野鳥の写真集で美しいのは皆、高野さんのものばかりである。私は、もしこの野鳥の写真という趣味を続けるならば・・・・・と、考え始めた。
自分がやる事が自分のためだけの慰め的な趣味でいいなら、何も考える事はない。だが人生、それでは寂しいだろうが。できれば自分がやる事も少しは世のため人のためになり、せっかく人生の時間をかけるのだから少しは意味有りなやり方を考えて、人生の価値を少しでも高めようではないか。
だが、自分が高野さんと同じ写真を目指しても、けっしてこの人を越えられないことは明白だ。それにかくも野鳥を愛し・野鳥を知り・その最も美しい姿を写真にとらえ・自然の意味を世に問える人は高野さんをおいて他にはいない。多分、日本にはこの人さえ一人いれば十分だ、と思った。
私には私なりの役割なり道があるはずだ。
人間、好きなことなら一生懸命考えられる。そしてそれなりに考えは出てくるものだ。価値とは、・・・と、考え始めた。ものごとの価値にも法則がある、などと考え始めたのもこの頃だ。要は、・・・・
・量で価値を出すか?あらゆる種類の野鳥の写真、あらゆる環境・状況の写真など、数多くの写真を撮る。
・質で価値を持つか?誰よりも美しい写真を持つとか、誰よりも美しく写真を撮るとか・・・
・希少の価値を持つか?誰も他の人がやっていない写真、誰もがやれない写真を撮る。
と、いう事ではないかと考えた。そして野鳥の写真の場合、ある程度の知識と経験を得た後では、よい写真は時間の函数で撮れるのだと考えた。土日の休日だけに野山にでる私と、いつも写真を撮れるプロの人達とは「量」は決定的に差がでる。また「質」もその量の中から選ぶのであり、野鳥の場合はスタジオ写真のようにモデルにポ-ズをつけさせる訳にはいかない。
従って私の場合、第三の選択、つまり誰もがやらないor誰もがやれない分野を選択するのがよいと気づいた。
こうして普通の野鳥の写真を止めて、猛禽類つまりワシ・タカ・ハヤブサだけの写真を撮り始めたのである。猛禽類は生息数が少ない。だからプロの写真家が彼等を追っていればメシが食えない。つまり売れる程、写真が撮れない。それに猛禽類でもイロイロあって、オジロワシやトビのような食稼業も厭わぬ種も昆虫・爬虫類・両生類など気楽な稼業で生きる種、そしてハヤブサやゴ-ルデン・イ-グルのように自分と同大の生きた獲物を狩り取って生きてる種もいる。
そんな中でも勿論、最後のカテゴリ-を私は選んだ。なぜなら彼等は人がめったに近づけない、無人島の絶壁や高山の絶壁などに生息しているからだ。
彼等の生態を乱さぬためには日の出前・日没後などに一人でそんな場所で行動しなければならない。一人で行動する事が最も大切だ。
幸い私は、子供の頃からボ-イ・スカウトや山岳部での経験から一人での野営もロック・クライミングも少しはやってきた。そんな訳で、ほかのプロ
達がやれないこのジャンルも私ならやれる。
野鳥の写真を巧く撮るためのポイントを端的に言えば、魚釣りと同じように一場所、二道具、三技術とでも表現できそうだ。私のワシ・タカ写真で
一場所はそれまでの調査や研究で少しは分かっており、またそこの環境で自由に行動できる自信はある。
次に道具は、大金をはたいて800mmの超望遠レンズを手にいれた。当時、年間所得に近いこの出費は生活を賭しての決断だったが、その後もなんとか飢餓に耐えつつ生き延びた。やればやれる。
ここまでで、ワシ・タカ・ハヤブサの写真を撮れるとすれば、いつか誰か自分と同じ条件の人が出てくれば、同じような写真を撮る事になるだろう。
そのうち誰かにカンタンに追いつき・追い越される程度の仕事なら、大切な人生の時間をかけて努力する価値はない。そこで、あるのは技術である。
川崎洋の詩の中で、多くの詩の中で、鳥は自由に空を飛んでいる。文学の中でも音楽の中でも鳥はいつも空を飛んでいる。だが、絵画の中で空を自由に飛んでいる鳥を見たことがない。西洋美術、とりわけ17世紀以後の博物学以後の絵画・リトグラフの中にもなぜか飛ぶ鳥はめったにないし、あったとしてもそれは単に死んだ鳥の翼を開いて描いているだけだ。
東洋美術でも花鳥風月のテ-マの中で鳥はそれなりの位置を占めてはいるが、飛ぶ鳥はすくない。しかも「落雁図」に見るように、それも単に死んだ鳥の翼を開き模写しているだけだ。実際に鳥が空を飛ぶときの翼や身体全体のフォルムは自然の流体力学法則に従った、もっと優雅でそれ自体が流れのような美しいものがある筈だ。
紋切り型の東洋美術の絵に占める、鳥の位置は実に美しい。バランスも大きさも、この紋切り型の構図が何百年もの間、問い続けてきて東洋の感性の集積だという事がようやく分かるようになってきた。だがその飛ぶ鳥のフォルムが汚い、醜い。日本画の源点、中国の「介子園画伝」の中の飛ぶ鳥のどの絵を見ても同じだ。
鳥の最も美しい部分、つまり鳥が空を飛んでいる時のフォルムはかって誰の目にも見えなかったのだ。人間の肉眼では一秒間に数回、はばたく翼の動き・形を見分ける機能がない。もともと人の眼には見えなかったのだ。
そして今、それは1/2000秒の瞬間を切り取れるカメラと800mmの望遠レンズで見えるようになった。ただし、目の前を高速度で飛び過ぎる一
瞬に、先ずハヤブサを800mm望遠レンズの画角3°のファインダ-に捉え、次にとりわけ焦点深度が浅い(ピントが合っている範囲が狭い)この超望遠レンズのピントを飛んで来る鳥に合わせ、そして羽ばたく翼のフォルムを見極めながらシャッタ-を切る、という技術が伴えば・・・・である。
それを私はやった。目だけは人並み外れていい。努力もした。最初、路地を低く飛ぶツバメを相手に300mmレンズで練習した。
だからそれ以後、私の写真は飛んでるハヤブサとワシ・タカだけだ。鳥が飛び立つ瞬間でも着陸する瞬間でもない。正真正銘、飛翔中の姿である。実際にはイロイロと危険なメにも合ったし、苦労・辛い思い・怖いメにも遇った。だが自分の好奇心を充たす冒険もあったし、自分に関する物語もできた。
そして誰もやれないだろう・撮れないだろうという写真、ハヤブサ、ミサゴ(うみたか)、ゴ-ルデン・イ-グル、ランナ-・ファルコン、サッカ-・ファルコン達が飛翔中のあらゆるフォルムを撮った。私が撮った写真は飛んで来るハヤブサの鼻の穴までピントが合っている。
飛んでいる彼等猛禽達のフォルム美をより強調するために、私はカラ-・フイルムを使用しない。その美を私は言葉では表現できない。ここで詩を越えたかな、と思った。実際、これまでに私の作品集・カレンダ-やポスタ-も何度か出たし、ヨ-ロッパのその手の図鑑や写真集に出ている日本人写真家はまだ見ていない。いまのところ私だけだ。
DerekPatcliffeの”ThePeregrineFalcon”というその方面では一番、権威がある本に私のハヤブサの写真が使用されて、ヨ-ロッパでも野鳥や猛禽、野鳥生態を研究する人達に私の名は知られたようだ。その後、どの国に行ってもこの事が役にたった。まだ鉄のカ-テンがあった時代のハンガリ-でさえ、これは特別の効果があった。本業の仕事でさえこれは効いた。イギリス、オランダ、フランスでも仕事の関係者にもバ-ド・ウオッチヤ-は多い。彼等がその事を知ると対応が変わった。ペル-ジアのクラスメ-トのマ-クでさえ、ハヤブサがカッコウを捕まえて飛んでいる写真を知っていた。
この有頂天の気持ちもペル-ジアの出会いで終わった。偶然の出会いで人生のシ-ズンは変わる。それが、ペル-ジアの例のクラスでただ一人の日本人クラスメイトの木村由実子である。
彼女は、トリノの国立美術アカデミ-の彫刻科に留学のため、イタリアに来ている。デザイナ-でもある。デザイナ-としてはすでにプロである。こ
ちらのデザイン雑誌に彼女の作品が紹介されているのを見た。
この日本人のクラスメ-トは、私が撮った内心自慢の写真を見ての第一声は「よく頑張ったわネ!」だった。続けて、「だけど、もし貴方の横に貴方と同じ望遠レンズと同じカメラで同じように写真を撮っていた人がいたら、同じような写真が撮れていたのよネ」と言う。私はひとしきり、この写真を
撮るまでの思想と技術的むずかしさを語った。
「そ-か-、技能的にむずかしいのか-。じゃ、貴方は技能者というわけか!」正直、アタマにきた。この神聖なる自然の生態写真と、それまでの
努力を肉体労働の延長としか見てくれない。
確かに芸術としての目で見る限り、どんなに美しい自然の写真を撮って来ようと、どんなに珍しいチャンスを撮ろうとも、それは偶然の運と技能とガンバリの結果で、文字通り’真’を写した「写真」に過ぎない。自然の写真である限り、作者の創造性なり思想なり個性を表現できる余地は、つまり自然写真が芸術になり得る余地は、偶然の結果としての写真の中からイイ写真を選択するところを除いては無い。
このところ自然を題材にした絵画の世界ではス-パ-・リアリズムというのが静かなブ-ムをよんでいる。かっての超写実主義は写真の発達とともに消え去ったかに見えた。だが写真に関する技術がどう発達しようと、写真は現実・事実を写し込むだけだ。いかに美しい鳥や自然を写そうと、写真には写したくもない背景や陰影まで写ってしまう。理想として頭に描く背景を写すわけにはゆかない。写真の限界である。
こんな中で、写真よりも美しく、写真のように自然の美を細密に表現するス-パ-・リアリズムが台頭してきたようだ。絵画の側から限りなく写真に迫るス-パ-・リアリズムに対し、写真の側から絵画に迫る事を考えないかと彼女は私に提案した。また、シ-ズンが変わるようだ。
写真の側から限りなく絵画に近づく。そんな事を私とて考えなかった訳ではない。「介子園画伝」の花鳥画のバランスのとれた構図をなんとか写真で表現したかった。雲や月や波や岩などの背景と組合わせてコラ-ジュを試みても、どうしてもチグハグな切り貼り写真にしかならない。これでは芸術写真どころかパロディである。考えてはいたが実現のための技術が伴わなかったのだ。
ペル-ジアが終わって数カ月が過ぎて、彼女からの連絡が来た。ず-っと考え続けていたのだという。そしてマスキング・ペ-パ-だのデザイン・
カッタ-だのエア・ブラシの小道具だの携えて、彼女はトリノからロ-マまでやってくるようになった。
彼女は先ず、私のネガからピンボケを退治した。例えば、ハヤブサが背後からカモを襲っている写真がある。このシ-ンを望遠レンズで撮れば、後ろのハヤブサにピントが合えば距離が違うカモは当然ピンボケになる。そんな写真は手元にゴマンとあるが、どんなに素晴らしい瞬間・構図でもそんなピンボケ写真は作品にはならない。自分のアイデアと技術で彼女は、このピンボケ部分をシャ-プな合ピン状態に作り変えていった。そのやり方は、ピンボケなり合ピンなりがネガの表面でいかなる状態であるか・・・・という事を冷静に考えてみれば私にも分かった筈だ。結果は実に美しい仕上がりだった。
複雑な手順や操作を要するが、この技術を使えば当初想像したコラ-ジュを越えてどんな事もできた。それまで撮ってきた手持ちのネガを使って他の写真を描く、つまり写真のネガをペン代わりにして全く違った写真を自由に描くこともできた。もはや絵画と同じように創造の自由が手に入った。
次に彼女がやってくれた事はカラ-・フレ-ミングである。私が撮る写真は全てモノクロでカラ-・フイルムは一切使わない。その理由は、飛ぶ鳥のフォルムだけに見る人の感覚を集中させたいからである。カラ-を使えば人の目は色に行ってしまう。だが彼女は自然には色も必要なのだという。その調和点として彼女はカラ-・フレ-ミングという方法を考えだした。それはモノクロ写真をパネルにする時、写真の周辺のフレ-ムをカラ-で着色し、例えば写真の中のカラ-・イメ-ジなり緊迫感なりを表現する方法である。
このアイデアはオリジナルであるが、その後、彼女と一緒にさせてもらったイタリア各地での個展(二人展)では大きな反響を得たものだ。
飛翔中のフォルムが一番美しいと思ってきたワシ・タカ・ハヤブサを最も美しく表現する事ができるようになった。野鳥の写真撮りという強烈な肉体
労働からの収穫を、すこしは芸術に近い世界に昇華できそうだ。
この世界における私と彼女の関係は、私の側の一方的な寄生ではない。彼女も私への援助の過程で、私が撮った猛禽類の飛翔中のフォルムに興味が湧きその後、彼女の彫刻家としての作品にワシやハヤブサのフォルムが立体的に表現されてくる。だからこの関係は共生である。
実際そのず-っと後、彼女はまだ美術アカデミアに在籍中ではあったが、1990年・イタリアワ-ルド・カップ・サッカ-と併設された国際美術展に日本人として彼女がただ一人だけ選ばれて出展したが、その時の作品は飛翔中のハヤブサをモチ-フにしたものであった。少なくとも大空を高速で翔ぶ猛禽類の空力的美・ダイナミズムを表現できる彫刻家は、世界にもあまりいない筈だ。彼女が住んでいるトリノからアルプスは近い。ゴ-ルデン・イ-グルの飛翔を見るためにアルプスのパルコ・ディ・パラディソの谷間に毎週、出掛けているらしい。
それにしても芸術家にしては珍しく寡黙なこの人には、時々このイタリア人の口からもウナリ声を出させる程の何かがある。アオスタの州立美術館ででの個展(二人展)の時にもそれをやった。今度は、空翔ける女神の塑像を本当に支えなしに空中に飛ばせてみせたのだ。イタリア各紙は、彼女の作品には青空が見えると書いた、風の音が聞こえると書いた。ID(工業デザイン)の方では、イタリアの有名どころから何度かアイデアを盗まれた彼女だが、芸術の世界ではそんな事が起こらなければよいがと、思っている。
一度、イタリアの自然保護と地球環境問題をテ-マにした共同展に頼まれて私の写真を出した事がある。その展覧会を見て彼女は、自然愛好家の自然愛好家による自然愛好家のための展覧会だと評した。それを見に来ている人達は皆、始めから主張したい事が分かってる人々であり、重なるのはその意義を分かっていない(そんな会場には来ない)一般の人々を啓蒙する事ではないか、という。そのためには、もっとドラスティックな表現でテ-マをアピ-ルするのだと言う。そこで二人での共作・コラボレ-ションが始まった。
私がイタリアで個展(二人展)をやれるようになったのは、こんな所からである。そして、それはこの地で思いがけぬほどの好評を得た。
人生のシ-ズンが変わるような出会いの中でも、相互に力が良い側に効き合うような組合せならば一層大きな相乗結果も産まれるようだ。
おかげで、私も彼女を通してこの地の芸術家やデザイナ-達とも交流でき、また思いもかけぬ個展(二人展)などやれる機会さえ得た。そしてその延長上には、私達がやれる事・やるべき事もありそうだ。今、ここでエッセイなどにチャレンジしているのも、こんな事が一つの動機である。
人生とは私という自我・意識が、なぜか偶然この私の身体という笹舟(器)に乗って、はてしなく続く時間という流れの上をしばし、たゆたっているようなものであろう。その小さな笹舟が流れにたゆたう間に、いくつか人生の季節にめぐりあう。
笹舟が浮いているしばらくの間にできるだけ、沢山の美しい景色や美しい音楽や美しい想いにみちた良い季節に出会えることを願う。
自分にも美しきものを創り出せる機会が与えられるならば、それほど至上な歓びはないだろう。そんな幸運を運び来る出会いは、神か女神の業でるに違いない。
11.TOLFAの森の中で
ロ-マの中心から西側に向かいロ-マ空港の3キロほど手前から、右手、北に向かう高速道路がある。計画ではティレニア海に沿って北上しピまで続くはずであるが、今のところロ-マの次の港町チビタベッキョまでしか完成していない。
そのチビタベッキョの少し前で高速道路を降りて、山の方、トルファに向かって細い道路を登って行く。谷に沿って曲折しながら登って行く道の側まで、ロ-マ近郊では珍しい広葉樹林が迫っている。この辺りは自然保護区になっており、多様な景観とファウナを見る事ができる。日本では見られない生き物にも出会う。この付近の谷川がとりわけ美しいので家族で時々出掛けて来る。
ある時、谷川で水遊びをしていた当時まだ5・6才だった娘が「大変だ~」と叫んでいる。急いで行ってみると、「ヘビがオタマジャクシを捕まえた!助けてあげて!」と言う。確かに小さなオタマジャクシは沢山いるが、ヘビらしい姿はどこにも見えない。「どこだよ!ヘビなんかいないじゃないか」ときく私に、「ホラ、あそこ!」と浅い水の中を小さな手で指さした。
「ヘビは水の中には棲まないの」と言いながら、水の中を覗いて見て驚いた。
マサカ・・・!水の中にはなんと、やや太めのミミズ程の小さく細長い、まぎれもないヘビがいるではないか。そいつはオタマジャクシを喰わえ込ん
だまま、水中の岩影に身を潜めていた。こんなに長い時間、水の中にじっとしておれる水棲のヘビなど中南米の熱帯にしかいないはずだが・・・。 「早く助けてあげて!」と、娘は真剣である。「本当にヘビかな?」と娘の心情をはぐらかすためと、私の好奇心から木の枝でチョットだけつつい
てみた。その瞬間、小さなヘビは素速い動きで水中を逃げ去った。その素速さは今までに見たどんなヘビより敏捷で、その動きはまぎれもなくヘビ
のものだった。オタマジャクシを助けてあげずに済んだ。
自然の中ではいろんな発見がある。むこうで息子が呼んでいる。先程、見たあの鳥が死んでいるという。行ってみると鳥は間違いなくBeeEater
(ハチクイ)である。この森に入る前、ふもとの方でこの多彩色の美しい鳥を皆で見たばかりだ。外傷もなく死因は分からないが、死後あまり時間
が経ってはいないように見受けられる。このカラフルな鳥をこんなに近くから見た事はなかったので、手にとってみようと手をのばしかけた時、側で、のぞき込んでいた息子が言った。「ちょっと待って!ウジがいる」確かに目の周りに小さな動くものがある。それに僅かに悪臭も発しているようだ。
「かわいそう」と言った娘が、「お墓を作ってあげようよ」と言いだした。
ロ-マは日本人の社会が小さな都市である。その頃はまだ日本人学校も作ってはいなかったし、日本語での教育のためのテレビも本も十分ではなかった。だからどんな事でも親自身が直接、自分の子に教育をする必要があった。
もっともどこにいたとしても当然の事ではあるが・・・・。
そこで私は、ここで子供達に自然の生態の話をしてあげなければならない。
今、目の前で死んでいるビ-・イ-タ-を中心に、生態の食物連鎖や自然の輪廻についての話をした。ビ-・イ-タ-はハチなどの昆虫を食べて生きている事、そして今、死んだビ-・イ-タ-に涌いたウジはハチかハエの幼虫でいつか又、ビ-・イ-タ-に食べられるかも知れない。自然は互いに持ちつ持たれつのグルグルまいで、ビ-・イ-タ-は今、死んでも自然の中での働きをしているのだ。だから、自然ではない私達人間がお墓を作ってあげたり手を出してはいけないのだ。というような話しをした。
自然は複雑に関係しながら成り立ってはいるが、その中で生きる全ての動物・生物がそれぞれが生きる場においておりなす、生きる権利と生きるための義務について理解させたかったのだ。
自然の中では鳥や動物達は生きている事の歓びを享受する権利がある。ただし活き活きと美しく歓びに満ちて生きてゆくためにはそれなりの、生きる努力つまり、それなりの義務を果たす必要がある。餌を自分で採り・敵と闘い・巣を造り・子を産み育て・渡りをし、死ねば他の動物の餌や植物の肥やしになる等の義務があるのだと・・・。
人間が生きてゆくうえでも基本的には同じであろう。だが人間社会で権利と義務を語る時、話はなぜか闘争的な語り口になる。
ペル-ジアでもそういう事があった。私のパラッツオにミ-の他に、タイから来た少年がもう一人いた。カイという名でミ-より2才年上の、年齢の
わりには英語も日頃語る話しの内容もしっかりした少年だった。
ある日、彼が自分の将来を語っていた時、自分はいつか陸軍士官学校に進み、国境周辺の内乱を治めるために戦うのだと言った。
それを聞いて、メラニ-が強烈な指導教育を始めた。彼女はインタ-ナショナル・アムネスティのメンバ-だった。力強く、時に静かに人間愛・
人道主義にみちた教育は徹底的に進んだ。
「人を殺す事はよくない!分かった?」
「ウン、あんたが言ってる事は良く分かった。だけど僕、士官学校に行く」
「・・・・・・・・」
ドイツ人は日本人と同じように固定概念を持ち過ぎる。自信があるのか、内容がいかに人道主義や博愛主義に満ちたものでも、自らの信念・価値観を押しつけ過ぎる。彼には彼の、彼の国には彼の国なりの事情があるかも知れない。そこにはヨ-ロッパとは全く異なった、民族や人々の価値観や社会のロジックがあるかも知れない。他に対し、外に対し影響力を与えるような主張をする者は先ずは、相手の立場や事実・実情等を謙虚に知る義務があるのではなかろうか。
自分の立場からだけで意見を主張する程、楽な事はない。物事を一つの立場だけから把らえ、判断し、主張するのは容易だ。物事の事実や真相をあらゆる方向から知るには、それなりの努力が要る。決して容易な事ではない。自らの意見を主張する事を「権利」と思う者は、それと同じ重さの知る「義務」があるのではなかろうか。少なくとも自然界では「権利」と「義務」の重さが、等しいように思われる。
自然保護活動をボランティアで行う人達の中でさえ、主張だけに固執する人もいる。自然保護はすでに地球規模で考えねばならない状況に至っているのに、やはり「おらが村の森」だけしか見れない人もいる。自然保護が大切なら、ボランティアだから許されるという訳にもいかない。与えられた立場にはそれなりの責任・義務というものがある。勿論、問われぬ義務など、自分から申し出る事もない。要は、本人の倫理観や正義感だけだ。
だがその倫理観・正義感もいろいろで、視点をどこに置くかで人の言動・行動は違ってくる。「子分達にメシを食わせてやりたいばっかりに・・・」と犯罪を犯す親分もいる。「地元の人達の経済振興のために・・・」と希少自然を開発する首長や業者もいる。「業界保護のために・・」と社会的損失を出し続ける政策を改めない省庁もある。自然保護の活動家も「仲間達を楽しませてやりたい・・・」ことだけに終始したとしても問題にはならない。
誰にもそれなりに正義感はあるのだ。だが、自分が関与する部分だけしか見ずに主張し行動するのは、自分の組の正義のために社会犯罪をするマフィアの思考ロジックだ。そういえば日本語で人の権利・「人権」という言葉は一般的に使われるが、人の義務を表しそうな「人義」という言葉はないようだ。それに近い言葉・「仁義」の解釈で、人の義務を理解しているのかも知れない。人の「知る権利」は話題にはなるが、人の「知る義務」は話題にはならない。どんな人も同じ人権・参政権を有しているのに・・・。
主張する内容がいかに崇高なものでも、全体を知る義務を忘れ部分の立場だけからの権利に固執すれば、やがて主張している内容が大切なのか、その事を自分が主張している事自体が重要なのかさえ分からぬものだ。
こうは言うものの、私とてそんな正義を語る自信もない。世界をそれ程、知ってもいないし理解度もあやしい。人間社会を一レベル下げて生態学で見たつもりの世界が正しいとしても、人間社会は日に日に変わってゆくし、揺れ動く。世界が揺れ動けば、自分自身も揺れ動く。自分の心さえも不動の自信はない。朝に方丈記の無常観があっても、夕方に札束で頬を打たれればコロリと心変わりをするかも知れない。心変わりをせざるを得ない事情も生じるかも知れない。人は、時に自分さえも、信用できない。人はかほどに弱いものだと思っている。
揺れ動く世界と揺れ動く自分自身のはざまで、自分なりの権利と義務のバランス感覚を保つ意識を持ち続ける事だけに、生きる正義があるのかも知れない。だがそのゆらぎの間で、あるいは自分の生き方・価値観が、他の人達と乖離してしまう事もあるかも知れない。友人や家族や自分を取り巻く社会の人々と激しく乖離してしまったら・・・・・私は自分の魂を売ってまで生きる事ができるだろうか?
さて、この美しいトルファの自然の中で、自分の子供達に生きる物の権利と義務について語る一方から、自信を失ってゆけば、親としての立場はどうなるのだろう。
12.CostaVolpino:子狐の湖岸
ミラノから東にヴェネチア方向へ高速道路に入る。ブレッシア-を一つ過ぎた所で高速道路を出て北側に向かう。ロンバルディアの大平原から山あいに入り、だんだんアルプスの前哨線のように谷は切り立ち、辺りの山の風景も荒々しくなる。これが日本だと、どの谷間をとっても○×渓谷とか△渓と名がつけられていることだろう。
やがて谷あいの細長い湖が見えてくる。その湖畔のLagoCostaVolpino(さしずめ子狐の湖岸とでも訳せる)に仕事でしばしばやって来た。この周辺は昔から谷筋の水量と落差を利用した水力発電を活用した工業が発達している。途中のグルグル廻りの道路には閉口だが大自然の中のこの町は、出張先としてはお気に入りの場所である。
仕事の関係で日本から専門の技術者を派遣してもらい、同行する事も多い。何度も同じ人物が来ることもあり、駐在も長くなれば彼等が持ってきてくれる日本の情報は本当に有益である。
ある時そんな一人と、この町のそれなりのレストランで昼食をとっていた。この時も彼は仕事の情報だけでなく、社会・生活の情報もたくさん持って来てくれた。この地の名物料理などを注文し、食前酒などを飲みながらそんな話を聞いていた時だった。
彼は急に私の方に身を寄せて、声のト-ンをひそめて話し始めた。例のあのヒソヒソ話のスタイルだ。こんなイタリアの田舎では、例え大声をはりあげて話したとしても私達の会話の機密は十分に保たれている筈だ。誰も日本語など理解する人はいないのだ。だが彼はそのスタイルをとり続けた。
声をひそめて彼は言う。
「ところで、君はもう墓を買ったか?」
私:「オ・ハ・カ・?」
多分、私はスットンキョウな声をはりあげたのだと思う。周りのイタリア人達が、この不思議な雰囲気で話を続ける東洋人をひそやかに振り返った。
その視線に彼は姿勢を正し、私は彼等に軽くウインクしてやった。
彼が私に言ってくれることはこうだ。日本では今、全ての不動産が値上がりしている。今やお墓もそうだと言う。まだ持っていないのなら、買うのは
今のうちだと忠告してくれているのだ。
お墓どころか、私は生きた身を納めるマイホ-ムさえまだ持たぬ。それに私は自分の死については遠の昔から決めている事がある。かって、ペル-ジアでもラルフやマ-クにも語ったし、事務所の秘書のアドリア-ナにも語ったことがある。
私は、生まれてきた時と同じように「死」も自分の意思や努力や経験とは関係なく、これも運命か神の意思かは知らないが、偶然にやってくるものだと思っている。やがていつかは、私も死ぬ。他の全ての人達と同じように、これまで生きてきた全ての生き物と同じように・・・。そうして見ると自分
の死だけが特別のものではない。できることなら自然に死にたい。
「お墓もいらないし、葬儀も法事もいらない。やって欲しくないと考えている」と私は言った。「とりわけ日本では・・・・」と私は続けた。私は、人が死んだ後の日本のあの制度が気に入らぬ。
例えば、私が死ぬ。誰かが葬儀屋さんとお寺様に連絡する。今では電話一本ですぐさまやって来てくれる。便利な時代になった。確かに慣れない状況にオロオロしていたのでは、家族か友人か周りの人はゆっくり情緒に浸ってはおれぬ。それに死体処理には手間がかかるし面倒だ。そこは専門家に任せた方がよいのかも知れない。
だが何故だか、どこかが気に入らぬ。このところのお寺様、ほとんど仏教ではないのではないだろうか。勿論、宗派にもよろうが・・・。もともと人の生き方、生きた人間の心を救ってくれるのが仏の教えではなかったのか。生きた人間も救えはしない経文が死んだ人間の魂をなぐさめられる筈がない。
確かに何度か説法も聞いた。だがそれはいつも葬儀か法事か、人の死と離れてカラリとしたカタチで聞いた事がない。
もしかして、そんな事は時代に合わぬと申されるかもしれぬ。だが昔、辻説法から始めた宗祖様もいたし、その時代時代の変化に合ったやり方で、その時代に合った内容で、人や社会を救ってきたではありませんか。それとも今風に何でもお金の時代だ、そんな事してもお金にならぬと、死
人産業に葬儀屋ともども徹した方が利口か・・・・。聞けば、戒名にも価格があるとか、葬式も「さて、ご予算は?」と商談しだいで松竹梅か上中下か
いろいろメニュ-があるとのこと。そのうち、この需要が消えないマ-ケットにも過当競争の波が押し寄せ、今に葬儀屋さんとお坊様がコングロマリッドでも形成し、市場原理に従ったマ-ケットの取り合いでもやりはじめるゾ。死体の奪い合いだ!
「悪い事をすると、死んだ時に地獄に落ちて・・・・」と、幼いころ母が地獄の餓鬼の話をしてくれた。死体を貪り喰らうその情景を何故か思い出してしまう。ゴネンナサイ、葬儀屋さん!その道ご専門のお坊様!
私は葬式も法要も要らないのです。
お墓も要らない。できれば火葬も要らない。自然から授かったこの肉体は、できる事なら有機物のまま、自然にお返しするのが本筋だろう。太陽・水・空気・自然の恵みで合成された有機物を、更に化石燃料を浪費しCO2を放出してまで、焼却分解する事もなかろう。海に返し魚や貝やプランクトンの、森に返し植物や昆虫や鳥たちの、少しは為になれたらと思う。
とはいえ今や自然は広くはないし、腐った私の肉体が不潔では他人に迷惑をかける。だから、火葬だけはお願いしましょう。
お墓は要らない。死んだ後までコストはかけたくない。骨片か灰は海か山か、あるいは風の強い日に空にでも放って頂きたい。
霊魂は在るのだという説がある。確かに時間の流れをたゆとう肉体の笹舟が沈んだ時、笹舟については質量不変の法則で火葬の前後の物質的な辻褄は合う。だが、その笹舟に乗っていた自我の意識・魂は物理の問題では解けぬ。
自分の霊魂も、消えてしまうより残った方が楽しい。
だがあの狭い墓石の中はイヤじゃ!死んだ後くらいは、海になりたい、山を駆けたい、空を飛びたい。秘書のアドリア-ナにこんな話をしたら、私に問うた。「では、インジエネ-レ、もし貴方の子供達が貴方に会いたい時は、どこに行けばいいの?フェリ・ネッリの日(つまり日本のうら盆だが)には、どこに行けば貴方に会えるの?」
私はすかさず答えた。
「私はあの青い空だ!あの空をゆく白い雲だ!」
カッコイイはずなのだが・・・・・・。
せめて死ぬ前くらいはカッコよくやりたい。だから死ぬ前に痴呆症や植物人間だけはゴカンベン願いたい。そこにこの私としての自我・意識がなけ
ば、残った肉体が例え生きていたとしても、それは私ではない。私(という自我)にとって、私の名誉にとって、本来の私とは違う意識が私の肉体を辱めるなど、とても許しがたい。そうなれば私の肉体をできるだけ早く抹殺してもらう事を要求する権利を私(という自我)は有すると信じる。
また死を前にして痛みや苦しみで、ノタウチ回らなければならない状況になったとすれば、これもゴヨウシャ願いたい。せっかくの現代医学・薬学だ。
願わくば、安らかに安楽死させて頂きたいものだ。自分の尊厳(?)を捨ててまで一分でも長く生きようなど、決して思わないから。
それともここでも又、すぐにでも死なれたら困る業界でもあるというのか?
あるとすれば彼等こそ鬼だ!人一人のライフ・コスト:地球の有限資源を浪費させる人類の敵だ!
時代の環境は変化している。
これは、私の遺言でもある。
彼の好意の墓場の相場の話から、昼食のあいだ、ず-っとこんな話に終始した。だが誓って言うが、話は極めてドライであった
レストランを出た。
むこうの岩峰から湧き上がった雲が、この谷あいの空にポツンポツンと浮いている。澄んだ青い空だ。
あの日、ペル-ジアでラルフとマ-クにこんな話をした時にも、こんな白い雲が浮かんでいたっけ。
第Ⅷ章LaFANTAGIA 1.明日という世界
趣味が多いと人はいう。だけどいずれも、付き合ってくれる相手を必要とするものでも、大金を要するものでも、仕事や家庭サ-ビスをサボるものでも、他人や環境に迷惑をかけるものでもないので人畜無害だ。ならば趣味は多い程、いいではないか。
そんな趣味の一つが「雲を見ること」である。まるで雲を掴むような趣味ではあるが、これが本当に楽しい。雲の種類やその季節の変化、時間帯やその時の天候・光線の具合で千変万化する様子を楽しめるようになればこの趣味も一人前だ、と自分では思っている。
同じ積雲でも地域よって微妙に形が違うし、見る場所によって印象が大きく変化するのも不思議だ。とりわけ空が大きく開けて見える場所で見るのがこの趣味の一番贅沢なやり方で、そこに風の音とその風景に合った音楽でもあればその上はない。私は昔、ペンテル・クレヨンの上箱に描いてあった広
い風景とその雲に魅せられていた。当然、12色より24色入りの箱のほうが空が広いし美しい。誰か友達が、それ以上に多色のクレヨンを持っているとその箱ゆえに、羨ましく思ったものだ。彼なり彼女の方が広い空を持っている。
バ-ド・ウオッチャ-が時には写真を撮りたがるように、私も雲の写真を撮りたがる。特に飛行機に乗って、自分の目の位置が雲の高さと同じレベルにある時に撮るのが好きだ。なかでも飛行機が着陸体制に入り乱気流にバウンドしながら積雲の谷間や頂の辺りを水平に飛ぶ間が最高である。
その位置はちょうど自分自身が雲であるか、あるいは雲の谷間を通り抜ける風になり切ったか、はたまた空高く帆翔しているワシやタカのような気分に、一瞬なりきれる高さである。
私はこの趣味だけのために、いつも空港にはチェック・イン開始前に到着していなければならない。
航路上の光線の方向を考慮した前方の窓側の席を確保するためだ。何十回、何百回と飛行機に乗っても、はじめて飛行機に乗る人のように私は毎回チェック・イン・カウンタ-に一番に走り込む。「前、
左の窓側!」そして飛行機が飛んでいる間、窓に張りつくように顔を寄せ外を眺め続けるこの習性は一生、変わらないだろう。
日本に一時帰国した。4年半ぶりに東京から九州までの空を飛んだ。秋から冬にかけて、この上空の色は紺碧であるはずだ。だがなぜかくすんでいる。
これだと上空の巻雲の白さも美しくは写らない。モノクロ・フイルムで巻雲の美しさをだすには、バックを黒く落とせる紺碧の空でなければならない。
復路も同じだった。後で知り合いのパイロットに聞いてみたら、このところ中国か韓国の大気汚染のせいらしくいつもこうだ、と言う。
そういえば飛行機から見下ろす地表の様子もなんだか変だ。私が始めて飛行機に乗った20年前に較べて何かが変わりつつある。こんな期間は地球や自然の歴史、否、人類の歴史から見ればほんの一瞬だから、変化の速さは急激だと考えざるを得まい。人類にとってのこの変化の意味は、巻雲が浮かぶ位置からでなければ、人間が住む地上からでは見えないのかも知れない。
地球上の環境は絶えず変遷・変化してきた。例えば気候や天候も短周期的にも長周期的にも変遷推移している。長周期的に見れば、ある時には氷河期と呼ばれる寒冷期があったり、また逆に温暖期があったりの変遷があった。
周期を小さく見れば年周の季節変化や日周の変化の中で、気温があがったり雨が降ったり風がふいたり乾燥したりの変化が見られる。
このように変化する環境の中で生物生態系は適応と淘汰を繰り返し「系」として存続してきた。すなわち、環境変化に対して自らの行動や生理を対応変化できた「種」はその後も存続できたが、適応できなかった「種」は淘汰され地上から消えていった。生物生態系は、あたかもそれ自体が意思を持っ
ているかのように、自らの調整を行って存続してきた。
さてそんな中で人類だけが特殊な進化を遂げ、人口増加と資源占有の大繁栄を続けつつある。その過程で今や、人類は自ら環境を変化させ、その環境変化や大繁栄の行き着く先も見えないようだし、変化の制御も出来なければ適応のカタチも分からない。
こんな状況を悲観的観測からは、人類の繁栄はもはや地球のキャパシティを越えていて、この地球系を健全に保てる可能性はすでに残されてはいないと言う。
楽観的な観測からは、我々の科学技術は無限であり地球の収容能力そのものさえ、造り変える事ができると言う。悲観論が心配する終末論は人類の文明史のどの時代にもあった。100年前にも同じような世紀末論があったがその後、何事もなく人類はちゃんとやって来れた・・・と言う。但し、「何
事もなかった」という言には、戦争という系バランスの調整機能も含まれているらしい。
私には楽観論者の考え方は、無責任極まる意見としか思えない。なぜなら端的に例えば、人口増加の制御や資源対応などに対する具体的方法の提案は何一つないまま、科学や技術への単なる期待だけを拠り所にした意見が多いからである。少なくとも指数的に推移・変化している現在の人類全体の活動デ-タから傾向を見る限り、明日は暗い。
自らが創り出している急激で大きな環境変化に対し人類は、適応の知恵を早急に得る努力を始めるか、さもなくば淘汰の選択を早晩迫られる事になるであろう。人類レベル、民族・国家、企業や集団社会、個人レベルなどあらゆる断面でそんな選択を迫られる事になるであろう。つまり、理性的手段に
依る「適応」を考えるか、あるいは戦争・人口削減という手段に依る「淘汰」を考えるか、先ずこの究極の選択肢が私達にはある。いずれも対応が遅れれば遅れる程、大規模な対応になる。
だから、ここで「適応のカタチ」を想像してみる事も無意味ではあるまい。
私達、一人一人も「ヒト科動物」の一個体である。その一つの個体として、「生存を享受する権利」もあれば「種または系の安定維持のために果たすべき義務」もあろうから・・・・。
2.適応のカタチ
ここに一つの神話がある。ある世界の愛の物語だ。多くの愛がそうであるように小さな愛も互いの歓びが大きくなるほどに盲目に、愛そのもので世界が見えなくなった。見なくなった。見れなくなった。
賢明な者ならば、深すぎる情念の愛の歓びと理性のはざまの葛藤に苦悩するであろう。愚か者のふりをして身が滅ぶまで、甘美なうま酒に酔いしれて溺れ続けるのもよかろう。我が身を蝕む情念の愛を断ち切って、真実の愛を想うには勇気がいる。現代の人類と科学技術の関係だ。
現代の人類は自らが創り出した現代文明の中で大きな葛藤に苦悩している。
だがこの種の葛藤は、人類が文明を創り始めた古代からそれらしく有ったらしい。動物としての人間本来の生理はそれほど変わる事もあるまい。また群体として社会行動する特性も基本的には同じだろう。だが、この「種」は何か新しいことを創り出し、行動のカタチを変え、自らが行動する環境を変化
させてしまうという特性がある。
時にはその環境変化は他の部族からもたらされた宗教文化であったり、他民族とのなんらかの接触により変革された文明であったかも知れない。そのような急激な環境変化に遭遇し、新たな環境に順応・適応する過程で、人は変化した環境に対峙したり葛藤を持ったりの苦悩があったらしい。世界のど
の文明、いずれの地域にも必ず在った神話が、それを物語っているという。
木村由実子はオリエント、エジプト、ケルト、ゲルマン等の神話を研究し、その中で現代にも共通する要素を抽出し、現代の人類が対峙するテ-マを現代版神話としてスト-リ-をまとめあげた。それを私と共作でコラ-ジュ写真シリ-ズ”LaFantagiadiRAPACI”で表現した。トリノやアオスタの州立美術館での個展(二人展)などでは、新聞・TV・美術誌などマスコミをあげて関心を持たれたのは、このテ-マが今や世界共通の課題である事を意味しているのかも知れない。勿論、彼女の意表をつく彫刻・造形と、コラ-ジュも企画のユニ-クさが在っての事ではあるが・・・。
この展覧会にはたくさんのの普通の人に来てもらい、この現代の課題の深さを普通の人に理解してもらった。イタリア人は感受性が強い。毎日、多くの人が来て、中には涙を流す人もいるから困る。神話が持つ詩のような要素は残すべきだと考え、ここで私達の作品の解説をするつもりはない。ただ、
この現代神話ラ・ファンタジア・ディ・ラパ-チの最終段に、「明日へのわずかな間隙」というのがある。
現代の科学技術は個々に見れば皆、人類愛に満ちたものである。だがその個々の愛、全てをまとめてみたとき、とんでもない怪物の姿になりつつあるのではないか?・・・と、言うのが現代の葛藤である。
個々の盲愛の重なりが形作る情念の愛の暗闇の中に、理性の剣で切り開らかれた僅かな隙間を脱出口に、人類の未来に可能性をつなぎ得るか・・・・というのが「明日へのわずかな間隙」のテ-マである。
これに続く作品・「神託」は、彼女の意図によれば以下のように展開する。
現在の問題を、例のシカの生息数が限りなく増え始めた島のモデルに例えてもいい。また、ノアの方舟の上で飼っている家畜の数が急に止めどもなく増え始めている状況に例えてもいい。また一頭当たりが食べる飼料(資源)が、なぜか日増しに増え続け、おまけに排泄物でやたらと辺りを汚しまわる。
とにかく、このような情景を思い浮かべればいい。ただ増え続けているのがシカでも家畜でもなく人間で、増えてゆくエネルギ-は文化とか文明とか、情念の愛とか、そんなものである・・・と思えばいい。これが現代の神話の背景にいる主役であり、バケモノ・悪魔の正体である。
彼女によれば、昔の神話が託す啓示の中に、自然や人々の平和・安寧を乱す魔物や悪霊を鎮めるために、神が彼等に一定の領域を与えその中に彼等を封じ込める話が世界中に残っているという。
”LaFantagiadiRAPACI”の現代神話の中での木村由実子のスト-リ-展開も古代からの神話が託す啓示に従ったものである。即ち、我々人類が飼い馴らしてはきたが、今や我々の手には負えない程に巨大化し暴走しつつある、現代の科学技術や文明を一旦一定の領域の中に封じ込め、真の理性と愛の視点からその飼い方を、付き合い方を考えてみよう・・・・という提案である。
”LaFantagiadiRAPACI”現代神話の啓示
「西暦2000年を機に、”ヒト科動物”が利用する地球表面の面積および使用する資源を一定にする。この事を”ヒト科動物”自らが宣言するものである。」
この領域の中において、すなわちこの前提の範囲内において人類にはまだ、自由に選択できる余地が残されている。
先ず大きく見ると、人類が人口増加の継続を望むならば人は一人当たりの消費資源の分け前を減らしてゆくか、やはりより豊かな生活・資源消費を増やしてゆきたいならばその分、人口を減らしてゆくかの選択がある。
前者の立場を採れば、人一人当たりの資源消費をだんだん少なくガマンの倫理や社会規範・文化を創りだす”作業”が必要であり、後者の立場に依れば、生命倫理や人権・人間愛などについての伝統的な価値観・倫理観を改めなければならない。
もう一度、科学技術と知恵を駆使して資源のリサイクルやヒト科動物の使用が許される範囲内の資源や土地の利用効率を抜本的に向上できる、本質的なテクノロジ-を創り直すという選択肢も残されている。
国連や国家の施政者も、企業や団体など社会の指導的立場にある人達も、また科学者・技術者も、宗教・文化・その他のあらゆる活動をする人達も、今度は自分の分野・立場だけからの思考や行動はできない。全体のカタチが与えられたのである。
これまでの人類は、自分たちの周囲は無限に開かれた世界であると考え、行動してきた。この試みは、人間に「閉じた世界」に順応させる事が可能かどうかの実験のようなものである。だが人類が将来とも健全にこの地球上で生存し続けるための、最後の試みであるかも知れない。地球の生命系・生物
系の中でヒト科の動物が存在するに価するか否かの・・・・。
現代の人類が抱えるこんな問題も指摘するだけなら誰でもできるし、そんな評論家なら世にゴマンといる。私達は、その具体的な解法を一つでも得て、実現したいと思っている。幸い、私達の個展(二人展)の度に同調者達のサロンもできつつある。明日が見えるか?
3.エコノミ-とエコロジ-
15年程前、野鳥の会の仲間達と、北九州の遠賀川の河川敷の葦原で繁殖しているセッカやオオヨシキリの調査をしていた事がある。夏、ここで繁殖する彼等は冬はフィリピンや東南アジアに渡り棲しているようだ。私達は彼等の足にリングをつけ、その繁殖時の生態や渡りのル-トを知るための研究
をしていたのだ。何年か調査を続けた結果、幾つかのおもしろい事実の発見があった。中でも私の興味を引いたのはこのスズメ位の小さな鳥が海を渡り、次の年にこの河川敷の葦原の同じ場所に戻ってくるという事実であった。彼等が地球上のこんなピン・ポイントをどういう方法で覚え、地図も案内標識
もなく戻ってこれるのか不思議でならなかった。
動物にとって、生まれ育った場所は何か特別な意味があるのかも知れない。
こうして見ると、人間にとっても生まれ育った場所・故郷は、情緒以上の何かが在るのかも知れない。
ところで私にはそんな故郷がない。いや生まれた場所ははっきりしているのだが、故郷の風景が町ごとなくなってしまったのだ。私は北九州の折尾という町で生まれ育った。その町がほんの20年の間に一変してしまったのだ。
丸山という字名であった。折尾駅のプラット・ホ-ムから見ると文字通りの丸い美しい小山が見えたが今はない。丸山桜堂という美しい地名さえ無くなった。子供の頃、遊んだ、小川・田んぼ・ため池・どこまでも続いていた丘陵地帯のどの風景も、今や原型さえ残していない。かって正直なヨ-ロッパ人が言ったマッチ箱のような家々が、ただ息が詰まるように広がっているだけだ。これは私の美しかった故郷では断じてない。故郷の駅に久しぶりに降り立って深い失望に駈られた。例の駅前だけ体裁を整えたハリボテ文化。私の故郷はそれなりの気品があった。故郷の風景は変わってもいい、美しくなるのであれば・・・。
現在の海外駐在員の生活は、正直ベ-スで良いこと半分、悪いこと半分である。ここロ-マに家族で住んで一番良かったことは、子供達に故郷の風景を与えられた事ではなかろうか。私の故郷の原風景は地上から完全に消えてしまったが、3才と5才で来てもう7年以上も子供達が住むこのロ-マの風景が変わってしまう事はないはずだし、時々、遊びに出掛ける郊外のどの町や村もその姿が大きく変貌するような事はありえない。自分が育った風景が、どこかに残っている事は心の財産であると、私は思う。日本のように国のあちこちで町の風景が日々変貌してゆく国を、ヨ-ロッパでは見たことがない。
もしかして、日本の経済や日本人の考え方に何か、間違いや欠陥があるのではないかとマジメに考えている。
ロ-マの中にいると気づかないがロ-マを一歩外に出ると、この国の歴史の重みが実感できる。その歴史の重みとは国全体、ここに住んできた人々全体に及ぶ知恵と力の集積されたものだ。日本に歴史はあってもそんな全体に及ぶ重みはない。
例えば、イタリアの地方の町の殆どが数百年、千数百年の歴史を持つが、重要なのは町そのものが歴史の時間だけ続いてきたという点である。公共の建物も道路も橋も城壁もそして民家も、ここに住む人達は歴史の時間だけ使い続けてきた。そこには使い捨てやその場しのぎのインスタントという概念はない。歴史を通してそれぞれの世代が生産した富は確実に蓄積されて後の世代にストックされてきた。
かつてナポリの会社にコンサルタントの仕事で来ていた時、相手の会社の同レベルの立場にある友人と給与の比較をした事がある。日本の平均的なサラリ-マンの私と彼の年間所得を較べてみて、日本人の所得水準の高さに我ながら驚いた。更にこの国の所得税・年金・保険等も高く、彼の可処分収入額を知って、正直、同情の気持ちを持ったものだ。
だがある日、彼の家に夕食に招かれた時に私は分からなくなってきた。あの収入の彼が、どうしてこんな立派な家に住み、こんなにも優雅な生活ができるのかと・・。聞けば、別荘も持っているという。そして、その会社の工場で所得が一番低い職種の人でさえ、大きな家に住み、夏のバカンスには1ヵ月別荘を借りて家族で過ごすという事も知った。所得格差が日本に較べて格段に大きいこの国に於いて・・である。彼等は親の遺産を貰ったとか、特別な金持ちでもない普通の人らしい。
私は何か、騙されているような気になった。私は彼と給与を比較し、チラと日本人としての誇りのようなモノを感じた。今や、GNP世界一の日本の
人間として・・・・。そして自分なりに良く考えて、自分の浅はかさを思い知った。
GNPとはGrossNationalProduct、即ち国民総生産額である。その生産を担う国民が生活してゆくのに消費が必要だ。この国民総消費を仮にGNC(GrossNationalConsumption)と呼ぶと、国民の本当の豊かさはGNP-GNCの差分でしかない。つまり、GNPがいかに高くても、GNP相応に国民の所得がいかに高かろうと、日本のように消費が高く、何事にも金がかかる国では本当に豊かな生活はできない。消費額が高いというのは、必ずしも物価の高さだけを意味するのではない。日本国民の経済システムを全体的にみた時の効率の悪さがあるのであろう。大きく馬力はあるが、やたらに燃費の悪いエンジンのようなもののようにも思える。
こう表現すれば奇異に思えるかも知れない。だが個別の生産活動や経済活動の効率は今や世界一であるかも知れないが、生産→消費のサイクル全体を国民的に総合してみた時に何かのまずさがあるようだ。
数百年も続いてきたイタリアの地方都市では、例えば家屋も数百年間使用してきた。それらの家屋は石という劣化しない素材で造られている。少なくとも家の荷重が懸かる部分にはそんな素材・石が使われている。だから彼等は何世代もの間、それを使用し続ける事ができる。
つまり彼等のとって家は数世代に一度の投資で済む。これに対し、日本人は家を木で造る。家の寿命は素材の寿命だ。せいぜい一世代しかもたない。その上、高価だ。さらに現在の日本人の家には熱帯材を大量に使う。
平均的な日本人が生涯収入の大半を費やし、世代ごとに建て替える日本の家、あげくの果てに熱帯林を切り尽くすと・・・とみると、フランスの首相クレッソン女史が「シロアリのような日本人」と表現するのも案外、外れてはいないのかも知れない。
日本の経済の全体システムが時代の環境変化に追随していない部分も多かろう。例えば、日本の住宅政策はGNPが世界一になった現在でも、一世代限りのマッチ箱的家屋を奨励しているようだ。数世代の使用に耐える大型の堅固な家屋を建てようものなら、国を挙げて叩かれる。ひたすらに貧困型のライフ・スタイルを美徳とする国民性なのかも知れない。
かってロ-マの時代、かの暴君ネロでさえロ-マの大火の後、長期的視野にたった都市計画を実施させた。そこでは耐久・耐火素材での家屋建設が奨励・指導されたという。今もイタリア各地で町ごと使用されている家屋は、そんな歴史の遺産、視野が広い民族の知恵の遺産である。
今。GNP世界一と言われ、世界一の金持ちのつもりの日本であるが、芸術・文化だけでなく経済の面でも、にわか成り金では視野に限界があるのかも知れない。
このイタリアやヨ-ロッパ型の「ストックの経済」に対し、日本人型のこの経済のスタイルを「フロ-の経済」と称する人がいるようだ。フロ-の経
済とは、どうやら消費を回転させて経済を活性化するというものらしい。例えば、車もカメラも次々にモデル・チェンジする、ファッションもライフ・スタイルも次々に新しい流行を創る。その事で消費も生産も増え経済が活性化し、成長してゆくという考えである。実際、一世代限りの家屋に限らず、日本人は既に多くの面でそうしている。つまり、使い捨ての経済である。
個々の製品をいかに省資源・省エネ・省コストの工程で生産しようと、その製品の寿命・有効期間が短かければ期間的視野でみた全体の資源・エネルギ-・コストの効率は悪い。
経済の発展だけが人間社会の目的函数ではないし、「フロ-の経済」の考え方は資源やエネルギ-を有効に利用するという観点からは何処かに誤りがあるように思われる。少なくとも、自然界の生産・消費の生態システムの中には類似のパタ-ンを見出す事はできない。
この経済のスタイルは、部分最適型でありホシムクドリ型の日本人社会の群特性には合いそうだ。だがこれを続けると日本人は永久にラット・レ-ス(二十日ネズミの水車回し)を続ける事になり、日本人の貧困趣味だけでは済みそうにない。本当に地球の資源を食い荒らすシロアリになりかねない。
強い通貨「円」の力にまかせた使い捨て経済。国外から安く資源を買って来れば、修理するより・手入れするより新しく買い換えた方が安上がりになる。物を回転させる方が生産者も消費者も互いにハッピ-になるというフロ-の経済思想は時間的にも空間的にも限定された範囲でしか世界を捉えていない経済ではあるまいか。資源の価値を生かす資源の経済性や資源の本質を省みない経済は国外の資源までも浪費して、世界を蝕む結果になるかも知れない。日本はむしろ「円」が強い間に、ストックを持つこと、何世代にわたり日本人が使用し続ける事ができる資産を国も国民も持てるような状況を作る事が今、一番重要ではなかろうか。
大きく馬力があるがやたらに燃費が悪い日本人のエンジンをいつまでも使い続ければ、有限の資源も浪費するし、環境も汚染し続けることになるのだ。
個別の分野では勝っても全体まとめて見ると何か損をしている日本人の経済は、戦術で勝って戦略で負ける戦争のようなもので、これを続ける事で誰も幸せにはなれない。
この日本人のフロ-型の経済思想は’LaFantagiadiRAPACI’の神話からの基本提言には、最もそぐわない。また全体的視点からも長い目で見た期間的な視点からもエコノミカルではあり得ないと思う。少なくとも自然界のエコロジ-・生態システムには、このような消費ロス漸増型の例は見当たらない。神話の提言に立って将来を考える時、経済において現代世界の指導的位置にいる日本人の経済指向性を転換できる刺激となる機会を、先ず創る必要があろう。またその結果を、世界全体に及ぶような工夫も必要である。
さて、そこで何をどうすればよいか?
日本人向けバ-ジョンとして項目をまとめてみると、以下の様なものではなかろうか。
①:先ず日本人の経済構造をフロ-型からストック型に変える。
(これを日本経済のニュ-デイル政策としたらどうだろう?)
・国家・社会の諸制度、組織・機構の「適応」型への改革研究。
・生産と消費をストック型にするための、技術的研究。
*諸資源ライフ(有効寿命)を長持ちさせる政策と技術の確立。
*人間と社会機能を長視点的、広視野的にみた設計。
②:諸消費資源の完全リサイクル(食糧・燃料などの直接消費資源)
・生ゴミや廃熱などの回収再利用技術の確立。
・環境汚染防止技術の確立。
③:地球表面の利用効率の革新的向上
(ストック型経済・ストック型技術との組み合わせで・・)
・地上空間、地下空間の利用技術の革新
④:人間が依然として成長できる余地の創造
・以上の組合せの下で、人間の基本的欲求を確保するための技術や文化の研究と方法論の確立。
以上の基本を基に、神話の提言を何か具体的な事例として考えてみたい。
地球上で人口が一番集中する都市問題、その中でも人間の居住空間を例を想定してみる。想定する都市部でも人間が使用できる地表は限定された面積だとする。しかしながら、人口は増え続ける一方、また人間は常により広い空間を求め続ける。そんな状況で、例えば200年は使用に耐え、しかも住む人の増え続ける欲求にも答えられる居住空間・建築物を考えなければならない。先ず、地域の姿の少なくとも200年先を想定した長期的・広範囲的視点からの都市設計を行う。どんな地方の宅地開発にもこんな考え方は重要だ。次に地表面積に対する居住空間の効率を上げる技術を研究する。その為には地下に潜るか地上に伸びるしかない。夢の超高層建築を考えるのではなく、現在の技術の延長で可能な範囲の高層建築技術と土木技術、および素材技術・加工技術などの組合せから可能な限り大きな空間の確保と、質的にも可能な限り長期間の使用に耐える堅固な構築物を造る。面積に対する効率を上げられた分、周辺に緑地や自然を確保できる。美しい景観の創造こそ重要だ。
構築物内から出る廃棄物の内、生ゴミや排泄物(糞尿など)の有機物系の資源を極力、建物の系内で肥料や飼料としてリサイクルし、同じ建物系内に造った人工生態系に応用する。そこで野菜などの再生産が可能ならば理想的である。
電気・ガス・水その他のエネルギ-のリサイクル、自然エネルギ-の活用も当然である。
また構築物が、多様化してゆく人間の欲求を満たすための空間設計がなされていなければならない。そのためには、設計においてデザイナ-は元より芸術文化・心理学・人間工学などの専門的知見が反映されている必要がある。
人間が一定の枠の中でも喜々として生きてゆくためには、生の人間感覚に基づいた生き方を人々が考え行動できる空間が必要な筈である。
このような目的のために、関係する分野の人々でサロンを作り、一同に会すれば分散されていた科学や技術の統合で、新たな可能性もありそうだ。例えば、それぞれの関連技術者は自分の分野の最適解としての技術を提供し合うのではなく、他分野技術との協業・組合せで新たな技術や可能性を開拓してゆくことが期待できる。
木村由実子はデザイナ-として、「狭空間デザイン」というコンセプトを提唱して作品を発表している。これは仮に空間が一定でも現代の生活では、空間内に収容する機能(電気生活機器・娯楽機器・什器・装飾etc.)が増え続け、美しいゆとりのある空間そのものが失われて狭くなってゆく。だから個々の機能を設計デザインする段階から、空間そのものをいかに創り出すかという視点から、いくつかのID作品を提案している。この過程で、彼女はもし他の分野の技術者や専門家と協業できたなら、より大きな可能性が期待できるとの印象を得ている。
仮にこのような視点から実際に、日本の都市計画や住宅政策を展開できたら日本人も経済を演繹的に考える事ができ、次の世代ではヨ-ロッパ並の足が地に着いた本物の文化や生活を享受でき、また世界の人類に対して本質的な貢献も可能になるのではないかと考える。
故郷の変わらぬ風景は誰にでもある方がいい。それも美しい方がいい。ロ-マの時代や中世から残る本質を得た建造物は、美しいし頑丈だ。現代の科学・技術と現代人のセンスと知恵で、それが出来ない筈はない。出来ていないとすれば、どこかに間違いか誰かのエゴのようなものがあるのかも知れない。だが日本人の皆が皆、目先の金と安っぽいその場限りの便利さを追っている訳でもあるまい。
現代に生きる私達が消費する地球の資源を、私達の世代の無駄食いで浪費せず、美しい資産としてストックして残すことができれば人類の繁栄が地球を蝕む事もなかろう。そして、世代毎にストックを残し、世代が進む度にストックが増え続けるように私達の科学や技術、あるいは文化を導いてゆく事が地球生態系の一翼にニッチを与えられたヒト科動物の義務ではなかろうか。
自然界のエコロジ-・システムは世代が代わっても前後の環境の収支は変わらぬものだ。今、私達の世代のエコノミ-・システムが破壊と汚染しか残せないとしたらこの時代に日本人として生まれ合わせた事が悲しい。せめて前の世代に較べて増やした消費くらいは、浪費せずストックとして残せるような経済システムに正すべきではないか。
遠賀川の葦原に毎年、セッカやオオヨシキリが戻って来るように、いつまでも変わらない故郷の風景を創って残してゆくことを「神話」は告げている。
