2.正しく見るのは命がけ〔A〕〔B〕

 かって無人島で道に迷ったことがある。もっとも無人島にはなから道などあるはずはないのだが、とにかく密林の中で迷ってしまった。  
 野鳥の生態調査で行った男女群島の男島は、長崎県五島の南西150Kmの海上にある高い絶壁で囲まれた周囲8Kmの上部が平坦な台形の島だ。昼間でさえ陽がささない鬱蒼と繁った密林の中での調査中に方向を見失ってしまった。島の上部が平らなため、自分の位置を確認する場所もない。大きな島ではないが、すこしの移動にも時間がかかり、激しく体力を消耗する環境下でメンバ-の顔にも不安の表情がみえる。  
  
 こういう時には冷静になってできるだけ客観的に辺りの状況を見つめるこが必要だ。苔のつきかた、木漏れ日の方向、わずかに吹く風の向き・・・。やがて必ず自分の位置や状況は見えてくる。そしてどう身をふるまうべきかも見えてくる。  
 異境・異文化の中に在って自分の方向や位置を見失った場合も似たような事かも知れない。それなりに物の見方や考え方に工夫もあるようだ。いっそのこと、こんな機会に自分の人生での方向や位置も見えてはこないか、人生の身のふるまいかたが見えてはこないか。自分にとって本物の人生というものがあるのなら、ぜひそれで生きてみたいものだ。多分それはあの文化やこの文化の中で規定されるものではなく、何か本質的な自分が生きている環境と自分固有の肉体や精神との間にあるものだと思う。もしも本物の人生というものが見つかるのならそれに命をかけてみたいものだ。いや、それを見つけるために命をかけてもよいと思う。  
  
  
〔A〕 Auto Strada (高速道路)  
 駐在員などでヨ-ロッパに住むことになった日本人が最初にとまどう事の一つが高速道路である。ドイツのアウト・バ-ンは概して速度の上限は制限されていないし、イタリアのアウト・ストラ-ダも速度制限はあってないようなものだ。速度をいつも気にしながらビクビク運転していた者がいきなりスピ-ド出し放題といわれてもとまどってしまうが、日本人なら皆、一様にやってみようと思うようだ。高速道路とは名ばかりでどこもかしこも制限だらけの日本から来た者には、やってみなければ損だという気持ちが働くらしい。  
 だが実際に速度を上げ始めるとすざまじい緊張が現れはじめる。150Km、160Km・・・ハンドル持つ手にジワ-ッと汗がにじみ出しマナコをカッと見開いて、もうここいらであきらめようかと思っても同乗の家族へのメンツなどあって、そうすぐには止められない。海外赴任早々のこの時期にオヤジとしての弱みは見せられない。家族のハシャギようとはうらはらに、運転してるオヤジの方は口の端だけで笑ってそのじつ歯をくいしばり顔がひきつっている・・・ということになる。追い越し車線を全速で走っているつもりでも後ろからピッタリつけられてピカッピカッとそこどけのライト・アップをされたりすと、もうウロタエの極みに達する。走行車線は他の車で一杯で戻れもしないしもうじきカ-ブもやってくる。「目的地まであと何キロか!」とついに怒鳴ってしまったりする。  
 こんな経験を何度も繰り返しているうちに、これも慣れの問題だということが分かってくる。仮に150Kmで巡行したければ、高速道路に入ったらまづ、思いっきりアクセルをググ-ッと踏み込み200Kmの速度で最初の10ー15分走る。その後150Kmまで速度を落とす。こうすればまるで80Kmの速度で走っているようである。空に浮かぶ雲も見える。風に揺れる梢、木の葉のささめきさえよく見える。勿論、前後左右の車の動きもその運転者の人相さえも見てとれる。人間の感覚とはこんなものらしい。  
 何事も自分の能力一杯でギリギリに緊張して身体を張って頑張ってみたところでそう長続きするものではなかろう。本当にそうしたければ、もっと深く思いっきり限界まで、一旦挑戦してそれから元のレベルに立ち戻る。このことは視力や感覚知覚にかぎらず全てに通じるのではないか。ひとたび自分の限界やものごとの極限を見極め、その後自分のペ-スに立ち戻る。そうすることで生理的にも心理的にも緊張なくして人生の高速運転を楽しむことができはしないか。何もせずとも世の中の変化が速すぎる。やりたいこと知りたいことが多い人生ならば少しはスピ-ドも上げねばなるまい。また人生の時間も無限にある訳でもあるまい。  
  
  
〔B〕観察

      私は鳥を見つめる。
        鳥も私を見つめる。
      そのうち私は 鳥になってしまう。
        鳥が私になってしまう。  
  
 とにかく観察から始めるのである。まづひたすらに観察するのである。野鳥の研究も、コンサルタントとしての仕事の研究も、文化の研究も、そして密林で道に迷った時も全ては観察から始まる。  
 「観察」とは、ただじ-っとながめている行為をいうのではない。見ている対象の中に何か法則なり因果律なりを見つけ出す意図なり意思なりが働いていることが肝要である。例えば彼女の鼻タブが僅かにピクリと動いたことに気づいたとする。その現象を発見した瞬間から、ソレは繰り返し性があるかとか、どういう状況の時にソレは再現するかとか、なぜソノ習性は顕れたのか・・といった探究の意図を以て彼女を見つめる行為を観察と呼ぶ。この観察の結果で得られた事実あるいは真理は、いつしか彼女または自分自身を必ずや良い方向に導くものと信じている。しこうして私はたんたんと何事にも真摯な観察を続ける。  
 ロ-マの社会にはこの社会なりの、例えば美の規範があるのではないか・・という意図のもとにこの地の女性の観察をする。身のこなし・顔の表情・物の食べ方・服装におけるカラ-・コンビネ-ション、話題の取り方等々。自分の人生への実益を考えるなら女性ばかり観察し続ける訳にもいかぬ。この地では男性にとっても、例えば優雅にふるまうことが社会生活においてもビジネスにおいても極めて重要なファクタ-であることも観察の結果から気づいた。”優雅な身のこなし”についていろいろな国、いろいろな地方、いろいろな場所に行くたびにそれとなく観察を続けてみた。  
 例えばレストランで同じテ-ブルに付いたイタリア人どうしの中でも、優雅な人とそうでない人は歴然と分かるから怖いものである。手の位置や動き、話す時や笑う時の表情など、ほんのちょっとした動作やしぐさでそれは決まってくる。  
 そのうち、例えば”優雅さ”にも法則があることに気づいた。これは重大な発見である。だからこの法則の詳細についてはまだ書かないことにしよう。有能な研究者は成果の安売りはしないものだ。しかも別の観察の結果から、この優雅の法則は人間だけでなく鳥や獣、他の動物にも共通していることが分かった。従って多分・・・・かなり深い真理をついている事は疑いない、と私は思っている。ちなみにイタリアのミラノ界隈で見られる日本人ビジネスマンの身のこなしをこの”優雅さの法則”でみる限り、その92.3%がこの法則に反しているという結果になった。しこうして観察は歓びである。  
 だが私はある時フト気がついたのだ。あちら側からひそかに私を観察している視線があることに・・・。考えてみればまわりはすべてイタリア人。私だけが東洋人。仕事がら日本人があまりいない地域にいることが多いだけに、ちょうど動物園の檻の中の動物のようなものだ。つまりこちらはオリの中から観察していたのであった。実はたくさんの目がレストランに入った瞬間から私を観察していたのである。ヤツはどこでコ-トをぬぐか、ス-ツの着こなしは、歩き方、顔の造作や表情は、ボ-イとの話し方は・・・・ヤツは優雅であるか? 彼等はそれとなくタンタンとこちらを観察しているもようである。  
 そうと分かれば例の法則を、すぐさま実行してあげるのがよい。”僕は日本の貴族の出だ”とばかりに。彼等の中の誰よりも優雅なたちふるまいを演じてあげる。歓びをすこしでも人に与える事ができるならばそれが一番いい。彼等をして”Che elegante !”と言わしてあげる。  
  
       イタリア人が私を見つめる。
             私がイタリア人を見つめる。
           ・・・・・・・
     どうやら詩はやっぱり鳥のほうがいい。
           鳥が私を見つめる。
             私が鳥を見つめる。
           そのうち私は鳥になってしまう。
           そうして私は鳥よりも
                 ずっと優雅にはばたいてしまう。