あとがき

 ’84年6月にロ-マに赴任して’92年1月に帰国するまでの間の出来事や人々との出会いの度に、またふとした瞬間に感じたり、思い・考えた事などをノ-トの端や紙片などに書き込んできた。そんなメモがいつの間にかA3の大型封筒三つを一杯にする程たまってしまった。  
 何人かの人達からの強い勧めもあって、そんな断片をかき集めてエッセイ等にまとめる気になった。ゴルフもマ-ジャンもやらないとはいえ、やはり日本人の性かイロイロと忙しく、とうとうロ-マを去る日になってもまとめられずに帰国してしまった。帰国後の日本での生活も同じように忙しく、この計画も放棄する事になりそうだった。だがイタリアでやってきた木村由実子との二人展を’92年9月、東京銀座のニコン・サロンでニコン、日本野鳥の会、その他多くの立場の人達のご支持で開催して頂いた折に、三たび、新たな展開がやってきた。ここでは共作のコラ-ジュ写真を中心にした’LaFantagiadiRapaci’展であったが、その趣旨を理解された方々の強いお勧めがあり、もう一度エッセイにチャレンジする気になった訳である。従いエッセイの構成も、ただ書きっ放しだけでなくこの延長上の活動が場合によっては実現する事を想定しながら進めると、自然にこんなまとめ方になってしまった。このようなまとめ方をしたのも、私の人生上の義務というか運命のようなものではないかと一方では思っている。  
  
 さて、こうして一応まとめてみたがロ-マ駐在中に考えていた事の1/5も書けず、また例の紙片も大半は手つかずのまま残してしまった。これまで、技術書は何度も書いてきたし本も出したが、エッセイなど文学じみたものは初めてで、さっぱり要領を得ない。およそ文学的な価値からは程遠い稚拙なものであろう。また粗忽にして粗削りな、時に人の感情を逆撫でしそうな点も多いと思われる。だから人名が出て問題になりそうなところは、あえて変名としたり彎曲な表現にしたりの配慮などはしているつもりである。こんな本を自分の実名で出す事ば、もしかして、醜い身体をひっさげて銀座を裸で歩いているような恥ずかしい事かも知れない。事実、家族からは、「物書きは三代の恥」というから本を出すことだけは止めて下さいとのプレッシャ-もかかっている。だが、そのような葛藤の一方、何かしら奇妙な義務感に押されあえてこれを出す気になったのが実情である。 

  
 帰国後の生活にはかなりの文化ギャップがあった。そのギャップを考える過程で、私としてはますます自分の考えに自信は出てきた。世のあらゆる分野にも現実と環境の間には大きなギャップがあって、改革の必要性があるようだ。  
 自分の職業柄、改革のための方法論もつくり、自分の世界の中ですでにそれなりの活動は初めている。だが、日本人社会は環境変化の中でどんな大きなズレや歪みが生じていようと、なかなか変わろうとしない。変われない。  
 そんな時、私はズバリと直言する。日本の社会では、まだこの方式はタブ-らしい。私は「口が悪いオトコ」という事になってしまったようだ。ここではいかなる状況下でも、いわゆる奥歯にモノがはさまったように表現するのがまだ美徳であるようだ。この分では、乗った船が沈没している最中でも、話相手への気配りを考えながら、言葉を交わさなければならないようだ。  
 人々は忠告してくれる。「君、そんな発言をすると君一人浮き上がるよ!」とか「そんな意見を述べると、周りから総スカンを喰うよ!」とか、あげくの果てに「出る釘は打たれる!」と明言されたりもした。  
 家を建てた。大金を借金して、少なくとも120年以上は使用に耐える素材と空間をもった家を建てた。もっとも私は今後120年間、生き続ける気はないし、私の子供が必ずこの家に住み続けるなど思ってもいない。誰か次の世代の日本人がこの家を利用できれば、日本人がその分、熱帯林を切らずに済むし日本人の経済構造をストック型に改善するのに若干でも寄与できる。  
 理解者・賛同者も多くそれなりの家は完成した。だが後が大変だった。日本の税制度の理念は50年前の貧困奨励時代のままである。せっかく造ったガレ-ジが日本税制の規格を越えた。なんでも三方向の壁を持ったガレ-ジは増税の対象で、その額は私の支払い能力を越えた。完成したガレ-ジの後ろの壁を取り壊す事になった。不安定で奇妙なガレ-ジが残った。その姿は、滑稽である。  
 指数的に社会環境が変化し多様化する傾向は日本が特に著しいように思える。その一方で目先の変化には敏感でも、本質的な変化にはその認識も対応もニガテな日本人社会の特性の痛みを強く感じての生活をおくっている。現在のように変化が激しい時代環境下では、何事も小回りがきく動き方をして変化する環境に追随すべきであろうが、日本社会の反応は何時でも何事にも直線的だ。  
  
 時間の経つのは早いもので、帰国して一年半も過ぎた。この間、日本人がたった三人の事務所で長年一緒に仕事をしてきた元ボスの中村さんが、イタリアの国営製鉄会社ILVA社の社長になった。イタリア政府からの強い要請での就任であり、彼こそ文字通り’DomorethantheRomansdo’を地でゆく人物だと思う。  
 ロ-マに赴任した時、「イタリアで安全な車とはスピ-ドが出てダッシュがきく車だ」と教えてくれた人である。私とは価値観・人生観は必ずしも一致しない点もあるが、ヨ-ロッパ在住で尊敬できる数少ない日本人である。  
 この人について誰かが書けば優に十冊のおもしろい本が書けるのではないかと思う。魅力の人である。だが、30年以上もイタリアに住み続け、自由な思考で生きてきた彼の舌から発せられるストレ-トな言葉は、間違いなく密集群型の日本人社会には刺激が強すぎると思う。ともあれヨ-ロッパで通用する数少ない日本人であり、御幸運と御健闘をお祈りしている。  
  
このエッセイのプロロ-グは6年前、あるところに依頼されて書いたエッセイそのものである。そしてその時のタイトルをそのまま、この本のタイト
ルにした。  
 やったぜ、やっと書き終わった!  
  
1993.11.3  
  
岡本久人