2.正しく見るのは命がけ〔C〕

〔C〕生態学の助け  
  
 「野鳥調査マニュアル(定量調査の考え方と進め方)」/東洋館出版社という本がある。実にオモシロクナイ本である。野鳥や自然に関する本ではあるが野鳥の絵も写真もほとんどない。調査理論だの統計数学だの文字とグラフと数式ばかりの本を野鳥や自然が好きな人たちが買ってくれる訳がない。  
 また調査技術や統計学の関係者も野鳥の調査など関心もない。こういう訳で大きな書店の専門書の棚にひっそりと並んでいる売れ行きが最も悪い類の書物である。原稿は出版の10年程前から集められていた。当時、野鳥が減った!野鳥が減った!と騒ぐわりには実態調査や研究の方法が理論的ではなかった。日本のそのスジの専門家は知識・知見はあっても理論がない。野鳥や自然に関しては、知識・知見を追う方が楽しいし本を書いてもよく売れる。従って労多くして売れない本など書くヤツなど、もしかしてアホ・・かも知れない。実はそのアホ・・かも知れない執筆者は私と友人の市田氏である。彼はそのスジの専門家で立場上、この種の理論をまとめる必要はあった。たまたま調査技術が専門の私が彼と組んだというだけのことである。だが二人とも本の印税を期待するほどアホでもなく当初からボランティアのつもりで執筆した。動機は義務感からである。  
 この本、調査技術論としてはスグレモノと自分では思っている。第一、この方面での系統的な調査理論はこの本のほか世界中にまだ無いし、多分今後も出まい。同じ生態学でも農林・水産などのスポンサ-産業のバックがある分野は調査理論も発達する。だが野鳥に関してはどの産業も興味はないし、鳥類学者も売れない本など書きはしない。  
  
 もともと私は、ワシ・タカ・ハヤブサなどの写真を撮ることを動機にこのスジに身を染めた。彼ら猛禽類の写真をマトモにとるには、それなりに彼らの生態を知りつくす必要がある。こうする間にいつのまにか野鳥の生態調査や自然保護などやる活動にどっぷり浸かっていた。おかげで生物学や生態学などをいろんな機会に勉強できた。これは重大なる成果だった。  
 自然界のメカニズムや力学が自分が関係する例えば、経営学や社会科学の困難な問題を解く時のヒントになった。  
 例えばある所に一つの島があったとする。当然のことながら島の面積は一定である。そこに繁茂する植物の量(生産量)はほぼ一定であるが、その年の日照量・降雨量・気温などの気象条件により増減する。仮にその島に400頭の鹿が棲んでいたとする。気象条件がよく植物の生育がよければ鹿は沢山の餌を食べ、繁殖力が上がったり幼獣の死亡率が下がったりして鹿の頭数は増える。逆に気象条件が悪く植物の生産が減ると鹿の数も減少する。この両者の関係、植物の生成量と鹿の固体数を定量的に毎年追跡していたとしよう。これは生産と消費の関係であり、人間を対象とした科学でいえば経済学の本質的なモデルと見てよかろう。  
 また、ここに棲む鹿はA、Bの二種類いたとする。同じ餌を食べる鹿ならば、この二群は餌をめぐって闘争しているはづである。餌がなくなる季節など両者間にかなり緊迫したシ-ンがあるかもしれないが、現場では闘争場面などめったに見れない。だが結果は両種の固体数の差で現れる。仮に毎年、両者の固体数を追跡できていたとしたら、この数字の動きは両群の力関係を示し、人間を対象にした科学でいえば政治学の本質のようなところがあろう。  
 さらに、勝った(数が増えた)負けた(数が減った)の理由を知るために、それぞれの群の年間の行動パタ-ンや群れの構成など集団の内部構造に着目すれば、人間を対象にした科学でいえば社会学の本質をそこに見いだすことができる。  
 実際の生態系ではこんな単純なモデルはないが、生態学は人間を対象とした経済・社会・政治などの社会科学の本質を端的に表現しているといえよう。また自然生態にはこうした空間的バランス論の他、時間的な推移変化の力学がある。局部的にみればカタストロフィ-もあれば破局からの再生もある。人間の社会現象の断片とのあまりの相似に驚くこともある。  
  
 さて人間の生態学、社会科学はどの分野をとっても難しすぎる、広すぎる、深すぎる、変化が速すぎる。しかも政治・社会・経済等、全ては相互に関係しあって複雑すぎる現象だ。だが一人の人間として人間社会に属しているならば、人間世界の動きが分かっていなければマトモに仕事も人生もやってはゆけまい。とはいえ根がル-ズな私のような人間はこんなに大きく複雑な人間世界の全体像を追うために勉強も努力もやりはしないし、ナミのアタマで出来はしない。  
  
 そこで私は考えた。人間社会の現象を全て一レベル下げて、生態学に置き換える。政治・経済も文化も経営も全て小さな島の生態モデルだ。  
 こうして見れば、何が枝葉で何が幹、複雑怪奇な人間社会の激しい動きもマクロ的だが全体像は見てとれる。浅くはあるが多角的に見てとれる。  
  
 イタリア社会と日本の違い、激しく変わるヨ-ロッパいや人間世界の動き、変化せざるを得ない日本や企業環境等々・・・何事も生態学にレベルを一段落とすことで、ほどほどに見誤らずに見ているような気がする。ともあれどんなやり方でも、自分が属する群れ(人間社会)の中からそれを取り巻く環境のゆくすえと、自分の位置を正しく知ることは生きてゆく上で意味ありのようだから。