2.ムクドリと日本人 (内的特性2 理性)

 ロ-マの日本人社会はヨ-ロッパの他の大都市に較べて極めて小さい。  
 イタリアの場合、商社・銀行・その他のビジネス関連企業は皆、ミラノに集中している。この国の商業の中心がミラノであるためである。  
 ロ-マなら夫婦同伴の日本人会のパ-ティも、少し広めのホ-ルで十分である。仮に全員参加しても、みな相互に顔見知りなくらい小さな集団であるが、この極めて小さな社会でさえ、その思考や行動に一定の方向と様式が見られるようだ。  
  
 パ-ティなどの会場で初対面どうしの人達の会話を耳にする。最初の会話は決まって双方とも共通点さがしにやっきなようだ。出身、趣味、関心事など共通の話題を相互に探り合う。そして共通の世界に到達すると双方ともに安堵する。この過程は何か群型動物が自分が属するべき集団さがし、群れづくりする時の行動と似た印象を受ける。  
 イタリア人とのパ-ティで初対面どうしのイタリア人の会話も何度か観察してみた。彼等の場合、互いに名乗りあった後いきなり時事の話題について語り合いはじめた。どうやら個人的情報、プライバシ-に関する話題はもっと互いが理解しあってからの事らしい。  
  
 といっても、私はパ-ティでいつも他人の会話を盗み聞きしてはメモを取り廻っているわけではありません。どうか誤解なく今後もパ-ティに私を招待して下さるように!  
 ただ日本人社会では共通の話題を見いだせない場合は悲劇である事は確かである。たいていの日本人ならゴルフかこのところの株価を話題にできれば最初のゴ-ルに到達できる。  
  
 私のようにゴルフもマ-ジャンも株もカラオケもやらない人間は一般的に持て余される。  

 相手:「・・・ところで、あなたの趣味は?」  
 私 :「山に行って飛んでるワシの写真を撮って、それをコラ-ジュして新しい芸術の可能性を創ったりして・・・・・」  
 相手:「・・・ムムム・・・変わってますねアナタ」  
  
 口きけばクチビル寒し秋の風・・、危うく変人・奇人の類にされそう。趣味も思考も共通でなければならない。すこしでも異なる考え方の異物質は集団社会に溶け合わない、受け入れる訳にはいかない。
 そこであわてて話を一般的な方向に変えると、  
  
 相手:「ああ、バ-ド・ワッチングですか。あれなら知っています」  
 私 :「エエ、マ-そんなとこです」  
 なんとか相手の知識のファイルにある共通のコトバまでたどりついた。ここでは社会の公約数から外れる項目は、出すべきではない。  
 相手:「いい趣味、持ってますね」  
 よかった、相手に認められた。  
 相手:「私もそんな趣味、もたなくちゃ」  
  
 冗談じゃない。趣味なんざ「持たなくちゃ」と考えて持つものではない。そんな義務感で出てくるモノはシゴトであっても趣味じゃない。もしかして、あの人達のゴルフもマ-ジャンもそんな類の趣味かしら。仮にそうなら、あまりに悲しい。趣味とは身体の底から湧き出てくる生理的欲求のようなもの、それを満たせばカイカンが得られるモノ、生きてる人間としての権利のようなモノである、と思っていた。  
  
 何事も行動の動機は、自己から出たものではなく社会や集団から出てきたもの与えられたものをなすこと。それが美徳である。意識の底には、自己の欲求もできたら社会・集団に共通なカタチ、あるいは義務のカタチにしてしまいたいというフシが感じられる。だから大好きなゴルフもつきあいのカタチでやればシゴトというカタチに、アソビもシゴトに置き換える事ができる。  
 こうして見ると、思考も行動もできることなら能動的より受動的の方が美徳である。ここでも「共通指向」のパタ-ンが見られる。  
  
 「種」としての日本人の分類学的位置を同定する意味からではなく、日本人の「種」としての、つまり日本人全体としての特性を客観的に見たかった。少年マッシモの印象を裏付けるモノとして、日本人が持つ「中心指向」「共通指向」と結果としてか原因としてか均一的集団特性のようなモノがありそうだ。その特性は確かにバラツキが大きな社会に在るイタリア人の目から見れば、均一性がもっと強調されて見えたかも知れない。  
  
 私はアルプスでワシを観察してきた少年マッシモの観察眼を認めざるを得ないと思う。それより、こうして見た日本人の「中心指向」と均一性が、妙にロ-マの夕空の凝縮したホシムクドリの群のイメ-ジに重なってしかたがない。バラツキが小さな日本人社会はどうやらムクドリ型の密集群のようだ。