6.欲望:この文明進化のエネルギ-

 このところ、どの科学を見てもおもしろい。生態学、鳥類学の分野でも、例にもれず興味ある新しい研究分野が次々と生まれ、新たな学術ジャンルを形成しつつある。中でも従来からの動物行動学や動物生態学などのハイブリッド的な社会生物学という新分野が注目をあびている。  
 この中では、動物の行動を(個体としも群としても)決定づけているのは生態系なり「種」の側からのル-ルではなく、個体あるいはその遺伝子の自己利益によるものだと考えられ始めた。つまり、動物に見られる様々な行動は、個々の個体(あるいは遺伝子)側の利己的な理由から決まるのであり、個体間に共通的に見られる行動も群として協調的に見える行動も皆、個体同士の利害の妥協点だという考え方である。  
 例えば動物の子育ても、産卵数も、雌雄の絆も、群社会の生活も、「種」の維持や生態系維持が前提でそのカタチが決まるのではなく、それぞれの個体がやりたいようにやった結果、偶然よく似たカタチ・それらしきカタチになっているのだと言う。最近は研究者、観察者が増え、多くのデ-タが採られるようになった。その結果、これまで観察され常識的に認識されていた行動とは違うモノが発見されるようになった。これまでみな一様・画一と思われてきた行動にも多様性・バラツキがあるらしい。それも環境や個体の置かれた状況によっても、また違った多様性・バラツキがあるらしい。  
 これまで一夫一婦の堅い絆で結ばれていると思われていたオシドリも、中には浮気をするものもいるという。  
  
 ヒト科の社会は、本当にゆとりが出てきたものだと思う。自己の生存にほとんど心配をしなくてよくなった現在、同じヒト科社会のゴシップを越えて他の「類」や「目」のゴシップをも覗けるようになった。本当に、私のように人一倍好奇心が強い者は、ヒト科のヒトリとして現在に生まれてきて幸運だと思っている。勿論、こんなノゾキの話だけでなく天文学も地球物理学も古生物学も最近の発見は何もかも面白い。それを支える科学技術とは素晴らしいものだ。  
  
 さて社会生物学のこの知見、つまり動物の行動や社会システムは皆、個体の利己的な動機から成り立っているという考えを、ヒト科の社会に当てはめると実に理解しやすい事に気づいた。  
 原始人間社会を想定するまでもなく、現在の人間社会のシステムにも類似・相似のパタ-ンが見られる。  
 例えば経済、自由市場経済の生産・流通・サ-ビス等の活動は個々人や社会(社会も個々人の集合体)が求めるニ-ズに対するものであり、それら個々人の欲求に基づかないものに対しては購買意欲はおこらない。社会の構成単位としての個人的な動機に基づいたこの経済システムは、この観点からは自然の生態システムに近い。  
 国民が食べられない状況から脱して、個々人の生活にゆとり(個人的な欲求)が出始めた時に計画経済・社会主義経済に破綻がきたのは、このシステムが自然としての人の欲求、人の行動の動機づけが満たされないものであったという事であろう。  
 自由主義の政治システムも、基本的には個々人の意思・欲求を集合させるシステムであり、強者・弱者の間のパワ-・バランスもある。こうして見ると、自然の生態のシステムに似ている。  
  
 動物の個体的(利己的)な欲求が個体の行動を決め「種」社会のシステムを結果的に形作り、ひいては自然生態系を維持するエネルギ-と見れるならば、人間の個人的な欲求・欲望も、経済・政治・文化・その他の人間社会のシステムを維持するエネルギ-であると考えてよさそうだ。  
  
 だが人間の場合、その欲求の対象が絶対的・本質的なものではなく、相対的なものであり、新たな欲求がエンドレスに続く点が問題であるようだ。  
 例えば車を欲しがる人が、一旦、車を手に入れたら次には、もっと大きな車が欲しくなる。時には、隣の人との比較で欲するものが変わってくる。常によりよいモノ、よりよい状況を欲する人間の特性が、自然における他の動物と異なる点であり、また問題の点でもある。  
 しかも今や、そのエンドレスの欲求を充たす科学技術という神器を手に入れた人類は、欲求を充たし続ける。その結果が指数的に増え続ける、人口と資源の消費である。そのために人間が占有する地球表面積も指数的に増加している。だが、地球表面積は一定であり、どこかに限界がある。  
  
 島に棲むシカの数が無限に増え続けられないように、発展の限界・制限条件が「種」全体の行動を規制し、ひては個体の利己的な欲求が制限される様な状況がある。  
 社会生物学で個々の個体の行動の側から、「種」・社会の側へ思考を進める帰納法的な考え方とは逆に、このような制限条件・成長の限界の側から、個々体の行動あるいはその集合体としての社会行動の側に思考を進める演繹的な考え方から見た生態学の立場がある。現在の人間社会の諸問題を考えてゆく上では、そのような立場・知見が重要な示唆を与えてくれるものと思う。  
  
 人間社会を考える場合も、先ず現在進化中の個々の活動を分析し、その行き着く先・限界点を予測する段階では帰納法的な思考過程が必要である。次にその活動の延長上の限界点・制限条件から個々の活動を見てゆく段階では演繹的な思考過程が必要であると思う。  
 かってロ-マ・クラブが提起した人間社会の成長の限界と提起された問題点を今風にトレ-スする気があるならば、あれから20年以上経過してコンピュ-タ-を自由に使えるようになった現在、もっと現実的に理解できるはずだ。実際には帰納方と演繹方を交互に人間の活動分野別に多段階にシミュ
レ-ションを繰り返し、また各段階で分野別の交互作用などを多重に見直すような、複雑なモデルになるであろう。  
 またモデルを検討する段階で自然の動物生態系とは異なり、人間社会の推移・変化には「人間の価値観」という定量化が難しいパラメ-タがあったりして、やっかいな部分も多いだろう。なにろ社会維持の基本エネルギ-・人間の欲求は、価値観の変化と共に変わってゆくし、今後もますます多様化の傾向にあるのだから。  
  
 私が駐在してきた84年以降今日まで、ヨ-ロッパは正に変革の真っ只中に在ったようだ。この大変革の時期にヨ-ロッパにいれた事に私は何か意義深いものを感じてる。努力して変革しようとするECの変化と、物理的に位相が変わるようにカタストロフィックに崩壊してゆくような東欧・ソ連の急激な変革は、同じ変化でも異質なようである。  
  
 東欧・ソ連の変化は限界点にきた一つの社会システムが位相の変化を起こしている過程であり、今後は自然の系と同じように人間の自由欲求に基づいた自由主義の経済・政治のシステムをとるのである。だが彼等はいきなり西欧のそれにはなれない。自由主義のシステムは全ての人間の自由欲求に基づいたシステムだから、その社会の全ての人間の欲求・欲望が制限なく一度ににあふれ出せば、その違い(多様性・バラツキ)の大きさが表面に出てくる。  
  
 そしてそのバラツキの大きさが、国家なり社会なりの一つの「系」として纏まっていれなくなると、それはより纏まりやすい単位・すなわちバラツキを小さくできる小単位へと収束し因数分解されてゆくはずだ。  
 自然での群の大きさは、小さ過ぎれば他の群との競合で不利になり、大き過ぎれば共通目的達成の効率が悪くなるように、互いの利害の妥協点という最大公約数的大きさで纏まるはずだ。その、例えば民族や地域単位に纏まる過程はかなりの対立や混乱を伴う事になるだろう。その損失は位相の変化に必要なエネルギ-のようなものかも知れない。  
 すでに民族による国家の分裂は始まっている。それまでの国家という全体での最適解を得ることに失敗した東欧諸国やソ連邦の社会は今後、部分最適解の安定点に到達するまで限りなく変化・混乱は続くであろう。  
  
 東欧・ソ連の分裂型の変化とは対照に、西欧は統合型の変化を目指している。国家間が自己最適型で存在し競合し合えば、その競合過程に多大なロスを生じることになる。その分、西欧という地域「系」は、アメリカや日本等の地域「系」に対して弱くなる。EC統合は経済システムの統合からはじま
った。  
 この動きは生態学的に見れば、極めて特異な例に見える。異なる系の統合過程は一般には、過去の大戦に例をみるように自己最適型の展開というカタチでおこる。過度の競合・闘争が進めば、場合によっては淘汰される「系」や「種」もありうる。自然生態系も人間の社会系もこうして存続してきた。  
 そして現在の人間社会の諸活動全体・文明も、こうした自己最適型の発展を続けている。地球規模でそれを見ると、あまりにも変化が大きすぎ速すぎるので、その限界点もその後の社会システムの位相変化に伴う衝撃の大きさやカタチさえ分からない。  
  
 EC統合の過程は、部分最適・自己最適型の進行の限界を予測しての事前の調整行動としての変革を、経済だけでなく社会システムの多くの分野にまで行おうとしている。確かに、この過程にも淘汰(例えば過剰生産設備の閉鎖など)もあるが、それは自己調整であり自然競合の結果で淘汰される場合に較べ格段に社会的影響・損失は少ない。ECの統合の動きを、動物の生態的行動として見た場合、最も進化が進んだ行動であるかも知れない。  
 だが、このEC統合の契機がアメリカや日本等との競合という点(つまり共通の敵への対応)であった事から、将来これが成功してEC全体が安定すれば、再び分裂の可能性はあると思う。ヨ-ロッパはすでに最初から、文化や社会システム等全てにおいて、十分にバラツキ(多様性)は大きい。今後
のECの推移・変化をそんな観点から見つづけてゆくのが楽しみだ。  
  
 ここで視点を一般世界に戻してみる。現代文明は科学技術の発達で、人間社会を指数的に変化させつつある。ここで「指数的変化」が持つ意味の二つの側面、「変化の多様性」と「変化の速度」についてもう一度、思いをめぐらしてみたい。  
  
 先ず「変化の多様性」であるが、科学技術の指数的発達の結果、科学技術自体が多様化する結果になった。その事は即、人間の社会システムや人間の生活を多様化する結果をもたらした。  
 例えば、生産・流通・サ-ビス等の経済活動は多種・多岐にわたり、日々多様化は進んでいる。その結果、人の生活も、例えば仕事の種類や態様は多様に変化し、人のライフ・スタイルも多様な選択ができるようになってきた。  
 音楽やスポ-ツという文化面で例を見ると、今やその種類・ジャンルも知り尽くせない程に多様化し、また誰でも直接参加できる状況さえ整い活動の態様の多様化も激しい。  
 多様化が増すと言うことは社会的バラツキが大きくなるという意味である。  
 これが政治や経済の面に顕著に現れれば社会的混乱になる。生活や文化の面に現れれば社会内で、文化的断絶が生じる。バラツキの大きさが一つの「系」として纏まれない程に大きくなれば、いずれ東欧・ソ連と(内容的には異なるが)形態的に類似のパタ-ンでなんらかの分化をおこすことになる。分離独立したそれぞれの「系」は自己最適の方向に向かって驀進する。  
  
 次の「変化の速度」の側面では、社会の変化が広域に多様化しながら且つ、日々、増速しながら変化している事の意味を考える必要性があろう。科学技術の変化は即、人間の社会環境を指数的に変化させている。  
 自然界でも過去に何度も気候等の環境変化が起こり、生物はその変化に自らを適応させて生き延びてきた。その環境変化に適応できなかった「種」は淘汰され、空いたニッチには新たな「種」が交代して位置を得た。こうして、生態系は安定的に存続してきた。  
 だが、現在の人間を取り巻く環境の変化の速度は速すぎる。環境もゆっくり徐々に変化してゆくなら、適応のための対応を準備できそれなりに適応変化も出来得よう。バラツキが大きくなった社会では、すぐさま適応できる部分もあれば全く適応できない部分もできる。  
 人間社会の不思議な点は、この変化の速度について行けない部分が淘汰されずに不適応のまま居座る場合がある事だ。すでに意味なしの組織も制度も、もう続けてはならない仕事やそのやり方も、一度この世に存在すれば全てに存在権・生存権が与えられたかのように、それらは残り続ける。だが社会全体の効率を甚だしく低下させるそんな部分は、急激な変化への社会自体のリアクションと見るべきかもしれない。  
  
 人間が環境変化にすぐさま順応できないのならば、いっその事、環境変化の速度を落としてはどうか。科学技術・文明の進化の速度をおとしてはどうか?環境変化を押し進めているのも人間なのだから。  
 だが、人間には環境変化の速度を落とす事も順応速度を上げる事もできない。なぜなら両者いずれもが人間の欲求・欲望であるのだから。  
  
 社会の系としても個人としても、変化が速過ぎると言う事は大きなロスかも知れない。やっと身に付けた知識も技術も一夜明けたら通用しない。一生を通してやり続けられる仕事など、今後はあまり期待できない。大金をかけた設備投資もシステム投資も、まだ新品なのに陳腐化して競争社会に役立たない。  
 変化が速過ぎるという事がロスとは分かっていても、すでに走り始めている社会の中では止まれない。立ち止まったり、遅れれば淘汰されるだけだ。  
 狼に追われるカリブ-の群のように、できるだけ先頭を走るのがいい。  
 現在のこの急速変化をもたらした主役はアメリカ人と日本人だ、という印象があるがどうだろう。フロンティアが特性のアメリカ人が多様性のタネをまき、それを日本人のホシムクドリ型群特性がアクセレレ-トさせた。全体的にそんな印象がある。自らの伝統文化と歴史に自信と誇りを固持してきた保守的なヨ-ロッパ人ではない。  
  
 人間も動物の一つの「科」と見るならば、社会生物学でいうように個々の人は利己的である筈であり、その集合体も利己的であるい筈だ。社会が複雑・多様になるにつれ、あらゆる分野が専門分化して部分最適型になってゆく。  
 そんな部分は利己的で全体世界など見はしない。利害が共通な者だけが纏まっているのでその利己目的を達成するのに効率よく、変化の速度は上がり、多様化の動向も一層確たるものになる。  
  
 遺伝子レベルから個々人が利己的ならば、人種や民族レベルの単位でも利己的であるだろうし、一つの社会でも組織単位に利己的であろう。その利己性が、社会の多様化で制限なく自由にあふれ出せば、あらゆる面での混乱や対立は避けられない。多様化する社会で個別の利己性を調整できるほど人の倫理・モラルも変われない。世の中の変化に人の心の変化は追いつかないし、倫理観・価値観・宗教観を持つのも人間だから利己的だ。  
 文明を、世界を、指数的に変化させるエネルギ-・人間の欲望。これが利己的に一挙に出てくれば世界に大きな対立や混乱が起こるだろう。人類社会全体の営みをEC統合のような演繹的プロセスで早めに調整しなければ、人類の社会生物系には早晩、破局がやってきそうな気配である。なにしろ地球の表面積は一定なのだから・・・・・。