6.嵐の前のリ-ダ-達

 リストランテ’DellaRocca’は今日も予約で一杯だ。最近この店のようにヌォ-バ・クッチ-ナ、つまり新しいスタイルに変えたイタリア料理を出すレストランが流行っている。料理には店主やシェフのアイデア・工夫がいろいろと見られ、ここの店主も誇らしげに料理は全てオリジナルだと言うが、このスタイルの料理にはフランス料理や日本料理の影響がある事は明らかだ。  
 イタリアの友人達と食事をしている私の後のテ-ブルに日本人のグル-プがやって来た。さしずめ機械関係の会社のミッションというところらしい。  
 団長とおぼしき人はどうやらイタリア通らしい。「通」の定義が厳密にはどうなっているか知らないが、この方、ワインの通でもあるらしい。ワイン・メニュ-を読みながら、十名近い団員に一仕切りの講釈をされている。  
  
 「’Cadelbosco’!」彼は注文した。ワインの通ではないが私も、この樽の木質の香りがする芳醇でやや発泡性のワインは好きである。今日も実は先程、これを注文したが、どうもいつもの味と何かが違う。同席のイタリア人の友人達も同じ意見だ。そこでソムリエも兼ねている主人に聞いてみた。  
  
「君どう思う?」彼は恐縮して「実に申し訳ないことをいたしました。」と謝りながら言うことは、今度の入荷分の中にコルクの品質が悪いものがあるらしい。  
 折角の上物ワインでもカンティ-ナ(酒造蔵)でのコルクの品質管理が拙ければ、ワインが酸化してその生産ロット全部がダメになることさえある。  
 今回はそれに当たるらしく、私達も二度取り替えてみたがダメなので諦めて、’Chardonnay’にした。  
 さてお隣のテ-ブルでは「通」の団長の講釈の後、全員が’Cadelbosco’で乾杯し、舌つづみして歓声を上げている。  
 側に来た主人に小声で尋ねてみた「ところで隣のテ-ブルのはどうなの?」  
 彼は手先を波うたせるゼスチャ-で”Cosicosi”と言った。「それなりに・・」という意味であるが、これはかなりマズイものだ。  
 仮に何かの違いがあっても、味覚には公式はない。彼等がウマイと思うのならば、それでいいのだ。毒でさえなければ・・・・。  
 だが、もしそれが毒であったらどうなった・・?この団長は明日の会議で、仕事の上で同じような事をやらかさないか・・・・?  
  
 日本型の社会では何事もラベルが重要である事が多い。本質も時として、さほど重要ではない。というのも日本の社会では品質管理がパ-フェクト、つまり品質のバラツキが小さい。ラベルは標準的に中身を表している。だからラベルを見れば中身を疑う必要はない。間違いはない、信用できるその道
のプロが中身を吟味しているのだから。  
 日本のようにバラツキが小さい社会では、社会のチ-ム・ワ-ク、組織化がうまくゆく。社会の機能が分業されても安心だ。他人の仕事も安心して信用できる。分業・協業がうまくゆき社会としては完全である。だから個人としては完全である必要はない。  
 いつしかラベルを知って中身を判断する習慣がついた。時に知識は恐い。  
 味覚さえも知識で知る、知識で味わう。中身・本質を直接自分で確かめる習慣が無くなった。中身・本質を直接、自分で確かめる能力が無くなった。だから時に中身が変質・変化していても分からない。
  
  
 社会の中身や環境が変質・変化していなければ、ラベルで物見るリ-ダ-でも問題はない。だが変質が在れば・・変化が起これば・・・どうなろう。  
  
 自然の中には生態系という社会システムがある。例えば自然の中での経済システム、生産と消費という視点で見れば、食物連鎖のハイアラルキ-(ピラミット)がある。ピラミットの底辺には系の生産の基本を担う底性生物の一群がいる。そのすぐ上にこの底性生物を餌にする動物の一群がいる。さら
にその上には彼等を餌にする動物の一群が・・・・というようにピラミットは構成されている。一般的には上にゆくほど強く大型になる。かくして頂点にはライオンや虎などの猛獣、ワシ・タカ・ハヤブサなどの猛禽がいる。  
 数から見れば下にゆくほど多く、上にゆくほど少ない。そうでなければ系として成り立たない。そして勿論、それぞれ生態系のどの位置(これをニッチと言う)に在っても、またいかなる個体も生態系全体において果たす役割はある。  
 人間の社会システムも、仮に人間がみな平等だとしても、社会の機能から見れば生態系のピラミットによく似てる。社長が頂点の企業のシステム、首長を頂点の国家のシステム等々、カタチから見ると明らかに相似形である。  
 安定した生態系では、「系」の各位置(ニッチ)の数のバランスが相応に保たれ、またその機能・役割も相応に果たされている。  
 従って、「系」の生産を支える部分は層厚で群も堅固で安定な方がよい。  
 だが、「系」の頂点に在る猛禽はムクドリのようには群れ飛ばない。彼等は孤高に一羽、空の高い位置から広く・遠くを見て飛ぶ。  
 ムクドリの群の中から外は見えない。自らの群(社会)の姿も見えない、自らの位置も見えない。ましてや広く・遠く、世界の変化も見えない。  
  
 さてリストランテ’DellaRocca’の日本人の団長は、はたして「系」の頂点・リ-ダ-としていかなる機能・役割は果たしているのだろうか。  
 ムクドリの群から抜け出して、猛禽が飛ぶ位置に就くのはむずかしそうだ。とはいえリ-ダ-の役割は猿山の猿さえもやっている。群の頂点のボスは常に高い位置にいて群全体を見、群の外側の世界(環境)を広い視野・遠き視点で見、変化をとらえ、事の本質を見抜き、群の動きをタイムリ-に対応
させる。これが群のリ-ダ-の役割だ。群の内側にいてリ-ダ-の機能は成り立たない。そんなリ-ダ-がいる群は極めて危険だ。群全体をダメにする。ひいては、生態系全体がダメになる。  
  
とりわけ変化が迫って来ている時には・・・・・。