5.群の特性

 密集型のホシムクドリの群と離散型のカモの群がある。どこか日本人の民族特性とイタリア人の民族特性をどこか象徴しているようだ。鳥が空を飛ぶ時の空間的なバラツキと人間の民族社会の性格的なバラツキには、どこか共通した要素があるようだ。人間も動物。ならば人間以外の動物の群の特性と共通した要素があっても不思議であるまい。時には冷やかに視点を下げて、我ら人間社会の有様を生態学から覗いて見てみても悪くはあるまい。  
  
 (群の構造)  
 密集型の群と離散型の群の違いは、群をなす個々の個体がその環境で生き延びてゆく時の強さかげんによるのではないかと思う。天敵や生息条件など「環境」に対し、一個体だけでも生きられる強い種は群をつくらず単独で生きる。そうでない種は群をつくる事でリスクを分散し行動の効率を上げて、種としての残存チャンスを維持している。さらに天敵が多く群をなしてもリスクが大きい弱い種ほど、群の凝縮傾向が強まり密集型になってゆく。環境条件に対する一個体の不完全性・弱さが群をタイトに形成させるのである。  
  
 進化が進んだ種では、さらに群内の個体に役割分担をさせ群内の機能分化を進める事で群全体の行動を一層効率アップを図り「種」としての残存チャンスを高めている。この傾向は高等動物ほど強いといわれる。  
 この機能分化を社会性と称しているが、この分野を研究対象にする社会生態学では、サル山の群社会の研究から始まって今では野性の類人猿の群社会、オオカミの群、トリ小屋内のニワトリの序列社会、アリやハチの社会などを対象にめざましい研究成果をおさめている。  
  
 そこで、進化が最も進んでいると言われる我々人間社会をこの観点から見てみよう。これまでにも人間社会の群の現象を、ブレンネッロの峠を越えた時や技術協力の仕事を通じて少しは見てきた。  
 密集型の群社会の現象はもともとプア-な環境下での動物の行動特性、すなわち生息環境に対し相対的に弱いものが群れ合うところから起源を発している。ヒト科の群、つまり人間社会でも背景は同じようだが、ここでは密集群の特性が良い面にも悪い面にも現れる。例えば個体差が少ない(バラツキ
が小さい)という特性は、チ-ム・ワ-クに向く。ヒト科の現代社会は機能分化(分業)が極度に進み、多数の機能の組合わせ(協業)で成り立っている。ここでは、人の能力やモラルが均一である(ツブが揃っている/バラツキが小さい)ほどチ-ム・ワ-クに寄与し、社会全体の効率を上げることができる。  
 この分業と協業を円滑に調整する機能つまり組織力が完全である限り、個体側つまり個人の機能は単機能である方が全体系としての効率は良い。この例はヒト科の社会だけでなく極度に社会機能が分化したハチやアリの世界で端的に見られる。この機能分化、個体の単機能化は社会の諸機能が複雑になる程、都合がいい。複雑になってきた機能はさらに分けてそれぞれを専門化してゆけば一層複雑な事にも対応できる。  
 イタリア人社会に較べ密集群型社会の性格を持つ日本やドイツの社会が現在、工業分野あるいはもっと上位で見て経済分野で優位を保っている理由はこんな所にあるのかも知れない。であれば、密集群特性こそ天然資源が少ない日本の力だと言えよう。  
 このような社会での個体・個人の在り方規範やモラルは、群集団のル-ルを守り、自己の領域を越えず単機能であることが美徳であり、群集団が一丸となって”一枚岩の美”や”総意の論理”を得ることにベ-スを置く事になる。専業化・専門分化が社会の要素機能を高めている限り、個々のチ-ム・
ワ-クを維持することが群の強さを維持することになる。  
  
 逆にこの密集群型社会の欠点は、群集団の内部では皆同じ行動や思考に従うから、Something-New やイノヴェイションが起こりにくい。また皆と同じ価値観を持つことが美徳であれば、時には「我が群集団のためにはしかたない」とか、悪いことでも「皆でやれば悪くない」という論理で行動が進行してしまう事がある。  
 また個人の立場で見れば、この世の中、一人では生きてはゆけない。生活が豊かになってもモノが増えても、人間としての自由度は太古同様、限界がある。現代社会の複雑環境における、一個人の不完全性・脆弱性が群の形成を一層強化させるのである。つまり日本のように人間が均一でバラツキが小さい密集群型社会では、個人として不完全出あるがゆえに社会系全体として完成し、逆にイタリアのようにバラツキが大きい離散群型社会では個人として完全であるがゆえに社会系として不安定であると言えよう。  
  
 (群の行動)  
・群における個体のベクトル  
 ホシムクドリ達は限りなく群の中心に中心に向かっているようだ。はみ出せばハヤブサにやられる。密集群型社会の人達も限りなく群の中心に中心に向かっているようだ(帰属意識?)。群からはみ出せばやられる。  
 密集群型社会で、限りなく内部へ向かう行動は「道」・精神主義を創る。こうして行動は「理」より「情」による傾向がある。  
  
 ホシムクドリのより中心に向かおうとする動きの中には、よく見ると個体間の激しい競争がある。翼と翼が触れ合うばかりの過激な競争がある。外から見ればほんの一部分においても過激とみえる内部摩擦・内部闘争が見える。  
 考えてもごらん密集群型社会とは、例えば一学年100人の成績が85点から95点の範囲で学生達が競争しているようなもの。1点でも多い者が勝つしハミ出せば落伍となると、隣の者は皆敵だ。頭の叩き合い、足の引き合いの競争も過激で熾烈で陰湿にもなる。必要ならば内部で派閥を作り、さらに群れて派閥で抗争もはじめる。しまいにゃ本質的な目的より競争に勝つ事が目的になってしまうこともある。  
 密集群型社会のこんな特性は相矛盾した性格を兼ね備えている。「皆、同じになろうネ」と言いながら集合したところで過激な競争を強いるような性格である。バラツキが小さな社会にはこんなところがある。  
  
 カモの離散群は、はなから個体間の距離が離れているバラツキが大きな社会だ。例えば一学年100人の成績が0点から100点までの範囲の中で、学生が競争しているようなもので、こんな社会ではハナから事の白黒は明白で競争はもっとオオラカだ。このタイプの社会での競争は仲間内の競争より、むしろ階級闘争に近いと言えよう。  
  
・行動の方向  
 密集群における個体の動きの方向やエネルギ-は、群自体の行動の目的に基づくものでなく周りの個体群に対し、より中心の位置を占めようとする多分、心理的作用に基づくものであろう。すなわち各個体は群全体の本質的目的ではなく、周辺の動きとの比較において行動をしている。  
 群全体の動きは個体の運動のベクトルの総和である。従って群全体が目的に対する行動の方向をとる前に、(群全体の動きを外から見れば)右往左往し群の形を変形させながらたゆとう事にもなる。ロ-マの夕空のホシムクドリの群は確かにそのような動きを見せる。  
 人間の密集群型社会においても同様な動き、中心指向の行動や思考や周辺との比較における(本質的ではない)過激な内部競争で社会的なエネルギ-のロスや纏まってはいるが本質的な社会目的に対し紆余曲折した行動が、イタリア人社会と比較して日本人社会に多く見られる。この類の混乱は社会的バラツキが大きい事による混乱とは異質のものである。  
  
 (環境変化に対する適応性)  
 自然界において鳥なり魚なり動物の群は時折なんらかの環境変化に遭遇する。ある時は天敵との遭遇であったり、急激な気象変化であったり、やや期間的なところで氷河期など大きな気候変化であったりする。このような環境変化に対し、瞬時的には群全体の回避行動で対応したり、新たな環境に対しては生態行動を変えたり種全体の生理機能を変えたりして変化に適応する。このように環境変化に対応できない群は滅亡し、適応できない種は淘汰され地上から消え去ってゆく。  
  
 話を群社会に戻そう。なんらかの環境変化が生じた場合、カモの離散型群は探索レンジが広いレ-ダ-のようなもので幅広く分散した個体群のいずれかがいち早く変化を認知できる。幸い彼等のアンテナは内部指向ではない。変化に対しても、バラツキが大きな群社会であるだけに弾力的に対応しやすい。  
 一方、ホシムクドリの密集型群は個々の個体のベクトルが群の中心に向かっているので外部環境の変化を認知するのが不得手である。また変化への対応も、群内部のベクトルが合うまでは行動の方向転換が出来にくい。  
 また群が大きい程、密集度が高い程、群は物理的に高質量高密度の状態になり、これが運動している時のイナ-シャ(慣性)は大きくてチットやソットの力では方向転換や停止など出来はしない。その運動に高速であればなおさらである。  
 ホシムクドリの群がハヤブサやチョウゲンボウに襲われているのを何度か見た。群はパニックに陥っているのに、群の方向転換は妙に緩慢である。  
 その進行方向に何があろうと・・・。実際に彼等がこうして天敵に追われているうちにEUR(ロ-マの新都心)のビルの窓ガラスに群ごと衝突したとか、どこかの教会の壁にぶつかって多数の鳥が死んだという話もある。クジラやイルカの群が一斉に浜辺に乗り上げ集団死するのも案外、こんなメカニズムかもしれない。こう考えると、どうやら密集群型社会の特性を持つ日本人として、何か身につまされる思いがして止まない。  
  
 (身につまされる思い)  
 密集群型社会の我等日本人、環境変化がない限りいつまでも平和に発展的な繁栄が期待できる。この群特性、チ-ム・ワ-クに向き集団活動を効率的にこなせるこの特性が、現代産業や科学技術の改善や経済活動など複雑化する現代社会のメカニズムに合っている。  
  
 だが、もしも我々を取り巻く環境に変化・異変が起こってもこの群特性、その変化を素早く認知するのは苦手だし、変化にたいする素早い対応も下手なようだ。新たな環境への適応には時間も手間もかかる。  
 一説に日本人は環境変化に順応しやすく新たな環境に合わせるのが上手いというのがある。だが多分これは誤解で、外部環境・全体環境に合わせているのではなく、内部の環境すなわち仲間に合わせているだけのことである。  
 群特性からみればワイド・レンジ、ロング・タ-ムで物事は見れないはずである。だから見えているのは自己を中心とした周辺、そこに合わせているだけの事である。  
 密集群の中心指向、均一化指向の特性では、事の本質が見えないし本質的変化を読み取れない。だから本質的な環境変化にたいする対応力・対応力は極めて弱いし効率が悪い。  
  
 また機能分化・専門分化が得意のあまり、社会全体(生態系)の機能の中の一部分だけの機能が突出したり、社会系全体の調和を壊して自ら環境変化を引き起こす可能性を秘めている。一旦走り始めると、制動も方向転換も効きにくい群特性だけに、あらぬ方向への暴走もまた起こり得る。それに内輪モメしながら全体自滅もやりかねない体質もある。  
  
 かっての第二次大戦で「種」としての危機・民族の崩壊直前まで走り続けたのは密集群型特性を持った日本人とドイツ人だった。離散群型特性のイタリア人は環境変化を素早く認知し、新たな環境に適応する行動を素早くとれた。どの時代社会に在っても人間の倫理観・価値観ほどアテにならないもの
ものはない。例え、一方の立場から見れば掌をかえすような変心であったとしても、「種」の維持という生物学的観点からはイタリア人の選択の方が健全であることは明らかだ。  
  
 80年代半ばから’世界一お金持ちの国ニッポン’のイメ-ジが世界に定着したようだ。だが国民が物心ともに貧困に見えるのは何故だろう。今後の趨勢を見てもこの傾向は改まりそうには思えない。この理由も案外こんなところに有るのではなかろうか。  
  
 さてムクドリ型密集群に属する私が、離散群型イタリア社会にカモのふりして生きられるか?とりあえずは試してみよう。それでも、ホシムクドリの密集した群の中に入り込むカモよりも、カモの群に紛れ込むムクドリの方がまだいいほうだと思いはするが・・・・・。