5.地方の文化

 風が見える。海抜2500mの大草原を波うたせながら風はアドリア海の方向からやってきては、通り過ぎて行く。その行く手、なだらかに続く谷間では紫色の炎が一斉に立ち昇るのが見える。野性クロッカスの大群落だ。  
 草原はかなたで地中海ブル-の空へと直接つづき、ふり返れば稜線のすぐむこうに海抜3000mのグラン・サッソの峻険な岩峰がそそり立っている。イタリアの背骨アペニン山脈のほぼ中央、カンポ・インペラト-レ(皇帝の平原)の5月である。  
 これこそ本物の大自然。かなたに点々と見える羊の群れ以外、人影は殆ど見えない。ここに人が来るのは冬のスキ-・シ-ズンと夏のバカンスの時だけだ。  
 「もったいない。こんな美しい自然を・・・」と妻はよく言う。どんな小さな山でもいつも人・人に満ち溢れていた日本を思うと、人がいない自然がとても信じられないのだと言う。私は人がいないのが自然だと思うのだが・・・。ロ-マから車でわずか1時間のこの高原だけでなく、この国はどこへ行って季節折々に豊かな自然に満ちあふれている。  
  
 イタリアに観光に来る日本人も、また今イタリアに住んでいる日本人も皆この豊かな自然には興味はなさそうだ。自然はスイスで、イタリアは歴史と美術と文化だと思い込んでいるフシがある。だがこの国の自然はヨ-ロッパのどの国に較べても多様で豊かなのである。  
 まず地勢・環境で見れば北はアルプス・ドロミテ山系の高山帯と山麓の森林と多数の湖、その南のロンバルディア等の大平野ではポ-川をはじめ各山系から流れだした河川が肥沃な耕地・水田・湿地帯を形成し、さらにそこから南に伸びる半島部ではアペニン山脈を背骨として多様な地勢環境を形成し
ている。またシシリ-やサルディニア等の島々や半島部の海岸線の変化を加えれば、ヨ-ロッパでは環境にこれ以上の多様性をもつ国はない。  
 この地勢・環境の多様性に加え、南北の長い地形が高山性気候から地中海性気候、あるいは北部平野部の多湿な気候から南部の乾燥性気候まで気候・気象まで多様である。  

 このような要因の組み合わせからイタリアでは、植物にも動物にも多種・多様なファウナ発達したのだと思われる。とにかくイタリアの自然は抜群に豊かなのである。だからそんな豊かな自然の中に出て行かないテはない。  
 幸い私の妻はコンドッティ通りの有名ブランド店のバ-ゲン・セ-ルには興味はない。また子供たちは歴史や文化も好きだが自然も好きだ。それにロ-マでは、というよりイタリアでは子供達だけを外で勝手に遊ばせられない。イロイロと社会的な事情があるのである。なにしろバラツキが大きな国だから、外人だけでなくイタリア人のそれなりの家庭の子供達も屋外では監視つきで遊んでいるようだ。と言う訳で、わが家では休日にはあたかもイヌの散歩に連れだすように子供達を戸外につれ出す必要もある。だから休日にはたいてい自然に向かって出かける事になっている。  
  
 子供達は地図や “Bell’Italia”とか “Airone” といった自然雑誌を調べては美しい滝とか、森の中の廃墟とか、アンモナイトの化石が出る地層とかを実によく探し出してくる。おかげで、もしかしてロ-マに住むナミのイタリア人よりロ-マから半径350Kmの範囲のどんな田舎町・田舎道・山道など
については知っているかもしれない。  
 田舎の村々の祭りの事も、季節折々に何処に行けばポルチ-ニ(きのこ)があるとかクルミや栗がひろえるとか、野性のゴボウ、わらび、大味ではあるが直径1cm・長さ30cmもある巨大なツクシ、野鳥や小動物、遺跡、骨董屋、小さいがとても古い教会等々、ガイド・ブックにはのっていない情報がたっぷりたまってしまった。今では少々ひねくれた観光客のガイドくらいはできるだろう。実際、ロ-マに日本人学校を開校した時、自然観察のカリキュラム作成はみな引き受けたくらいだ。  
  
 多様な自然の中では、多様な人との出会い・ふれあいもあるようだ。めったに人とは出会わないカンポ・インペラト-レの草原やグラン・サッソの岩道でときたま人に会う事がある。そんな人達は決まって本当の自然愛好家であったり本当に登山好きな人である。日本の人達のように、他の人が山に行くのでついて行くといった付和雷同の群れ指向の人はめったに見ない。だからどんなに美しい自然の中でも人がやたらに沢山いたりすることは、バカンス時の特別の場所以外ではめったにない。  
  
 といっても日本人に較べ自然愛好家が少ないという意味ではない。例えば街角の新聞スタンドでも駅のキオスクでも自然や動物に関する月間雑誌が何種類も売られている事実は、それだけに愛好者や理解者がいるという証拠であろう。日本に較べてその種類も多いし質・内容ともにレベルも高い。このような状況から判断すれば野山に山河に海浜に溢れる日本人は、自然の本質の理解者でもなければ自然愛好家でもない、単にミ-ハ-的に群れてるだけではなかろうか。妻がカンポ・インペラト-レの風景の中で人がいないので「もったいない」と言ったのは彼女の誤解で、それが本来の自然の姿なのである。  
 そんな自然の中で出会った人達とは本当に理解しあえる。「ぜひ、我家にお茶に寄っていって下さい。」などと誘われたりする。初対面の間柄であっても、限られた人と環境が相互に人を信用させるのかも知れない。  
  
 季節折々に田舎道を行くと日本と同様に野草や山菜を摘んでいる人に出会うことがある。そんな時、私達は必ず声をかけてみる。「何を採っているの?」「それどんなに料理して食べるの?」・・・問えば、お百姓のオカミサンは必ず丁寧に教えてくれる。妻も熱心に聞く。処理から切り方から調理法まで詳しく聞く。なにしろ彼女の趣味は料理だし、各種の料理を各地で勉強し、コルドンブル-まで卒業してしまった今、イタリアの野草や山菜の料理は残された “Something-New”なのである。自然の中でのふれあいはいい。「これ持って行きなよ」と気前よく自分が採った山菜をくれたり、「我家で休んで行かないか?」とここでも誘われたりする。そこではあのロ-マでの人への不信感など微塵もない。  
  
 同じような山間の村でも地方によって人々の反応が違うところもおもしろい。多分はじめて見る日本人に、大人も子供も積極的に近づいて話かけてくるタイプ、はにかみ気味に見て見ぬふりしながら遠巻きに眺めているタイプ等々が地方によって分かれるのがおもしろい。  
  
 もし人と人が信じ合えるための条件という様なものがあるとすれば、その一つは人が多すぎない事だと思う。次の一つは人がいる「環境」そのものであるかもしれない。というのも同じような田舎の人であっても、土地が肥沃で豊かな北部や中部の田舎の人の反応と乾燥した南部地域の人の反応が微妙に違う事にも気づいている。こころなしか、南のカラブリア地方の山野で出会った人達からは警戒されたし、警戒していたような気もした。