3.パラドックス-1

 ロ-マの時代に造られたアッピア街道は、フォロ・ロマ-ノから始まっていたはずだ。現在保存されているロ-マ時代の街道はサン・セバスティアーノ門の辺りが起点になっているが、遺跡保存・観光を兼ねて実用上、今も利用できる。この街道は南に下りイタリア長靴のカカトの部分、ブリンディッシュまで続き、その先は一旦、海路を経てシルク・ロ-ドへと続いていることになっている。  
 さてセバスティア-ノ門から街道を先に進むと狭い道の両側にいろいろな遺跡の断片が見えてくる。人物彫像、壁面装飾、番小屋らしきモノ、多分ノロシ台と思われる石材・レンガを積み上げた構築物、現在も誰かが住んでいる住居跡等々、両側の傘松並木や周囲の牧場風景と相まって、この道を車で
ノンビリ通り抜けるのは楽しい。気を抜きすぎると道の所々に当時の敷石が残されているため、車が大きくバウンドし慌ててしまったりする。敷石には当時の荷車の轍の跡が深くクッキリと、刻み込まれている。  
 この遺跡道路はアッピア・アンティ-カと呼ばれ、日本の観光客にはあまり知られていないル-トだ。交通量も少ないし、車を降りて歩くと空が広く見えるところがいい。遺跡の断片を眺めながら、文明や技術などについて想いを巡らせながら散策するには最適だ。だからここには日本からの来客でも、そんな人だけを案内する事にしている。  
  
 ロ-マ時代の水道橋遺跡を近くから見れる、というより直接手に触れる事ができるのはロ-マでもこの辺りだけである。道路脇の草垣を乗り越えて牧草地を2、30メ-トルも歩いた傾斜地から何故か水道橋が始まっている。  
 二千年前の土木・建築技術は堅固なもので、現在まで何の破損部分もない。  
 この分野の技術としては現在のそれと較べても遜色のない完成度の高いものである。  
 その当時の日本は弥生時代であるが、その遺跡で見られる技術は、人間の生活に最低限必要な食や住に直接関わるものである。だが、ロ-マの遺跡で見られる技術は人の生活の必要条件を越えた、より豊かに安定した生活のため、あるいは生活を楽しむための、いわば人が生きてゆく上では十分条件としてのものだと思われる。  
 こうして見ると文明とは、動物としての人間が生きてゆく上での必要条件を越えた部分、すなわち豊かさ・楽しさ・安定・快適さ等を求めてゆく過程であると言えるかも知れない。そしてその具現化を保証するのが技術であると考えてもよかろうか。  
 だが、このところその文明があやしい。将来を予測すれば、人間が生きてゆく上での必要条件さえ危ぶむ観測もある。人間の生活の豊かさ・楽しさ・安泰・快適さ等を求めてゆく過程に何か間違いがあるのか、あるいはそれを具現化する技術に問題があるのか、はたまた豊かさ・楽しさ・快適さを追い求める人間の属性そのものに問題が出始めたのか・・・何かに、どこかに歪みが出てきたのかも知れない。  
  
 日本企業が少ないロ-マで民間企業の駐在員をやっていると、いろいろな分野からの来客にめぐり合えたり、知り合えたりする幸運がある。  
 このところ大学や研究機関からの来客も多く、知り合いになれる度に新しい知見が得られるのは役得のようなものだろう。だがこのところ、その目新しさが妙に気になり始めた。中には名刺をもらっても、  
 「ほほう・・・、して、これはいかなる分野を対象とした学問ですか?」  
と、確かめなければならない程、最近では科学や技術の分野は複雑になってきたようだ。  
 この複雑化の過程を分類してみると、だいたい以下のパタ-ンになりそうだ。  
  
①専門分化:スペシャル化ある科学なり技術なりが発達するという事は、巨大化・複雑化・高度化するという事である。その対応の手段は科学・技術の分業、すなわち専門分化である。(細分した多くの)部分を集中的・専門的に発展させ、その結果を総合すれば全体としては飛躍的に発展することができる。この過程で専門分化した部分は新たに独立した分野を形成する。  
  
②組み合わせ:コンビネーションある科学・技術が発達し、その成果が全く別の分野に波及し大きな効果をだす。例えばコンピュタ-技術の発展はあらゆる科学・技術の飛躍的発展に寄与している。この過程で、例えば設備の制御技術など各種の分野でコンピュ-タ-の応用技術分野が誕生している。  
  
③相乗化:マルチ化ある科学・技術が例えば②のような形で発達しその成果が更に、もとの科学・技術を飛躍的に進化させるといったケ-スである。たとえばマイクロ・コンピュ-タ-の制御技術がコンピュ-タ-の素子の新素材の開発・製造やその精密加工を可能にし、その事が又コンピュ-タ-の性能を飛躍的に向上させるといった図式が成り立つ。  
  
④間の子新生:ハイブリッド化  
高度に発達した全く異なる分野の科学・技術の組み合わせから、従来にはない新しい科学・技術が生まれるケ-スで、世界を一新するような変革を生み出す可能性をもつ。例えば、分子生物学(これ自体、ハイブリッド分野であるが)とマイクロ制御技術の間の子として遺伝子工学(バイオ・テクノロジ-)が生まれたように、多くの分野に変革をもたらしているのは皆このタイプである。SSC巨大加速器、
TER核融合、宇宙開発、ヒト・ゲノム解析などのビッグ・サイエンス(巨大科学)と呼ばれる、世の中に変革をもたらすような科学技術も全てこれである。  
  
 以上のパタ-ンは科学や技術に限らない。文化や社会生活のあらゆる分野に波及している。だから現在に生きる人なら、誰も身の周りで大なり少なり必ず思い当たるはずである。かくして世の中は多様化する。しかも多様化した全ての部分・分野は、それぞれに加速度的に変化・変態してゆく。  
 これら個々の分野は、あたかも一つの生き物ででもあるかのように、自己発展・自己増殖して指数的な進化を遂げつつある。  
  
 今、手元にこの2、30年間の科学技術の発達を示すデ-タがある。基礎科学も応用科学も、工学・医学・あらゆる科学技術の指標の全てが指数的に変化している。この結果、経済も文化も全ての社会システムが指数的に変化してきた。おかげで、私達の暮らしも飛躍的に向上し、量的にも質的にも豊
かな生活を享受している。だが人々は更に大きな恩恵が、更に目新しい事が享受できる事を期待して止まない。勿論、世界中の人々が、である。  
  
 その総合的な結果として・・・・・・  
  
 世界の人口は指数的に増え続け、人類の資源消費量が指数的に伸び続けている。人間以外の生物ならば、消費資源は完全にリサイクルされ再生産に直接結びついている。排泄物も自らの死骸まで有機物のまま、ムダなエネルギ-を一切追加消費する事なく効率的にリサイクルされる。だがヒト科の動物の資源消費は大量漸増消費だけでなく、リサイクルの効率が甚だ悪い。時にリサイクル不可能な排泄物(廃棄物)まで排出してしまう。このタイプの生物が面積一定の地球上にいっぱいはびこれば、地球が長持ちするはずがない。  
 これが地球環境問題の本質であると私は考えている。  
  
 人間以外の生物社会で、個体数が指数的に増加した例は少ない。旅行バッタやレミングのように「種」としての清算を後で行う例を除いては見当たらない。彼等は大増殖の後、自滅のための大移動・渡りを始め、やがて海や砂漠に至って自滅する。  
 バッタやレミングの大移動は「種」の固体数制御(「種」維持の為)の、さらには生態系全体を健全に維持するための自己制御のシステムである。人類も問題の文明システムの中で、個体数増殖のシステムと同時に個体数制御のシステムも一応は準備されている。大量破壊兵器!だがこのシステムは
自己制御のシステムではなく「系」全体をも破壊し尽くす。だから生態学的な観点からは健全なシステムではない。それでは他に、「種」の内部的な自己制御システムが人類には有り得るのだろうか?  
 多分、答は’No’であろう。その第一の理由は、この人類の爆発的な増殖・発展を基礎づけている科学技術の個々の分野が全体系の調和を図りながら自己制御でき得ないからである。  
 例えば医学の分野、彼等は人の命を救う事・人を病の苦しみから救う事を人の社会から求められる究極の命題だとして活動している。その成果あって多くの人々が救われ、世界中の人々が皆健康で長生きできるようになった。  
 だがその結果、世界の人口が増えすぎて、まさか地球の「系」の存在が危ぶまれるような状況になるとは思いもしなかった。また仮にそれが分かったところで、彼等は活動を止める事はできない。なぜならまだ病に苦しむ人々がいるし、人々は不老・不死を願ってやまないからである。  
 例えば生産の分野、彼等は世界中の人々が求める便利で快適なモノを供給し続け、人々は生活が豊かになり幸せになってきた。だがその結果、地球の資源の枯渇や環境破壊が起きようとは夢にも思わなかった。また仮にそれを知ったところで、彼等は活動を止める訳にはゆかない。なぜなら、世界中にまだそれを求めている人々はいるし、すでに持てる人々もさらに目新しいモノを求めているからである。  
  
 どこにも悪意はない。人々が求める至福の社会をめざして、人間の諸活動は動いている筈である。だが個々の分野の活動の速度が速くなってきた今、それらを総合して人間社会全体を見渡し、調整する機能が弱いところが問題なのだ。  
 各部分の最適解の総和が全体の最適解にはならなくなった。いかなる分野も個別に見れば全て善意に満ちた健全な活動であっても、今や、全部を集めてみたら人口も増え過ぎ、資源消費も増え過ぎ、あげくのはて自らの生存環境さえ危ぶまれる事態になってきた。こんな状況のもとでは明日は見えにくいのである、見えないのである。  
  
 「木を見て森を見ず」という諺がある。この諺に例えるならば、木は個々の分野であり、森は人間社会の全体系である。今や個々の分野でさえ複雑・多岐になり、この限られた分野だけでもややもすると目がゆき届かない。いわば「一本の木さえ複雑に枝を張り枝葉も輻輳してきたので、木を見る人は
森など見えるはずがない。新たな木が次々に生まれ、生い茂ってくる。森を見る気になっても木が邪魔で、森全体など見えはしない。」という状況であろう。  
 こうなれば個々の分野は全体を見ず益々内部を指向する。益々スペシャリスト化して、部分最適化にドライヴをかける。新しいこと、新しいもの、を求めて先端・先頭を走りたがる。ホシムクドリ型の群を形成し、内部に摩擦が起きようとも部分だけの目的を達成しようと飛びまわる。あちらでもこちらでも、大きな群、小さな群、群の中の群、もうじき空は一杯で混乱の極みに達しそうだ。限りなく部分最適を求めて、個々の分野は暴走する。  
 将来の私達の社会の全体系の姿がどんなカタチになるのか、誰も想像もつかなくなった。どうやら変形怪異な怪物・マモノになりそうだ。  
  
 以上の現象は社会全体のスケ-ルで進行しているようだ。科学技術、政治・経済、産業・企業経営、社会的諸活動、個人生活、文化・・・等の全てで、社会の大きな部分でも小さな部分でも、組織の上でも下でも、相互にに関連しながら・・・・。もうすでに暴走は始まっているのかも知れない。  
  
 今やヒト科動物はフシギな大繁栄・大増殖の過程に在る。