3.カフェ・ド・パリのコ-ヒ-・タイム

 カフェ・ド・パリは私の事務所のすぐ下にある。「太陽がいっぱい」などの一昔前の映画にしばしば使われ観光ガイドにも紹介されているせいで、日本人観光客も多い。  
 この店はバ-ル、つまり日本でいう喫茶とスナックのようなものであるがテ-ブルが店内だけでなく Veneto 通りの歩道にまで拡がっているところがいい。昼食の後、夏ならオンドリが描かれた日除けの下で通りすぎる夏の女性を目で追いながら、冬なら太陽をいっぱいに浴びながら Veneto 通りの上
に浮かんだ雲などをボ-ッとながめてコ-ヒ-・タイムを過ごすのがいい。  
 旅行者、ビジネスマン、大使館員など、いろいろな国のいろいろな人達も同じようにここでの時を過ごしている。時には同じテ-ブルにたまたま座り合わせた見知らぬ者どうしが、たあいもない事について話し込んだりする。カフェ・ド・パリはそんな雰囲気のところである。  
  
 あの日もそんな昼下がりであった。確か昭和天皇が崩御され、大喪の礼の前後の日であったと思う。いつものように陽のあたるテ-ブルを選んで、私は大切な目を保護するためにいつもの大きなサングラスをして昼食後のコ-ヒ-・タイムを楽しんでいた。この気に入りのサングラスをして、こうした場所に身をしずめると、ちょうど植物の中で昆虫がカモフラ-ジュ(擬態)するように私は周りのイタリア人の中に溶け込んでしまう。現に、すぐ隣のテ-ブルを占めた三人の日本の若者達も私という東洋人の存在に気付いてはいないようだ。彼等の横のテ-ブルでは国際セミナ-か何かの参加者か、大きなネ-ム・プレ-トを胸に付けた初老のヨ-ロッパ人達が語り合っている。このところ向かいのホテル・エクセルシオ-ルでは毎日、国際会議が開かれているようだ。  
 どちらが先に声を掛けたのかは知らないが、そのうち日本人の若者達と初老の一団は語り始めた。外語大の学生だろうか、若者達がそれなりの英語で話しているのを聞くとはなしに聞いていた。  
 会話はどうやら時の話題に入ったらしく、天皇ヒロヒトや第二次大戦の事など話しているようだ。そのうちオランダ人らしい老人が少々コ-フン気味の大声で何やら主張し始めた。要は、オマエ達日本人はケシカラン、かって第二次大戦中に日本人がやったことは許しがたい、と言っているのだ。三人の若者は、まるでニュ-ルンベルグ裁判か東京裁判の被告席にいる日本人であるかのように戦勝者の論告を聞いている。この青空とまぶしい太陽の下のカフェ・ド・パリのこの席は、小さな議論はいいが半世紀昔の戦後裁判の繰り返しには向いていない。脇で聞いてて、だんだん不愉快になってきた。  
  
 やがて悪ノリジイサンの勢いに圧倒されたのか、彼等が「私たち日本人は皆、あの過去を大いに反省しています」と答えた時に私のガマンの限界線はプッヅリと切れた。  
 この物分かりの良い、かしこいガキ共は何だ!まるでどこかの国を訪問する年取った総理大臣のようではないか。私は戦争論者でも反戦主義者でもない。だが客観的に見てこの青年達の態度は行き過ぎだ。彼等は’私達日本人’と何度もいうが、少なくともこの日本人、私はそうは思っていない。責任とれと言われても、第一、私は当事者ではない。まだ生まれてなかった。  
  
 「オイオイ、よしてくれよ。」他人の議論に割って入るのは趣味ではないが、つい憤り半分の気持ちで若者達に日本語で言った。「オイ、君達!君達がどんな立派な立場の日本人かは知らないが・・」 サングラスの効果か、思いもしない近くから切り出された日本語に、まるで擬態のカマキリに跳びかかられたバッタのように彼等は驚いた。そんな彼等に私の言葉はすでに命令口調であったと思う。  
 「ジイさん、アンタの言いたい事は分かった。だが俺達はアンタ達がやった戦争が終わって25年後に生まれた。アンタ達の世代の間で何をやったか知らないが、俺達の世代ではアメリカ人ともオランダ人ともイギリス人とも中国人ともうまく行っている。アンタ達の世代の45年前のウラミ・ツラミがまだあるのなら、あの世で掴み合うなり殴り合うなり好きなようにやってくれ。アンタ達だって、アンタ達のジイさん達がその昔、アフリカやアジアでやった事に責任とれるというのか?」・・・と言え!  
  
 正に物分かりの良い、かしこい青年達であった。一人がすぐさま、その通りに英語で言った。件のジイサマ、かなりイキリたって立ち上がったが、それまで聞き手に廻っていたイギリス人と思われる老紳士が彼を制して言った。「そうだ、この若者達の言うとおりだ。あの時代の事は我々の世代の事件だ」・・・・議論は終わった。  
  
 青年達は私と話したい様子を示したが丁度その時、私のコ-ヒ-・タイムが終わった。で、「楽しい旅行を・・」とにこやかに言って私は席を立った。  
 必要以上の人間関係を引きずり廻さないのも私の主義だ。  
  
 この出来事についての思いは、日本人は世代を越えても同じ思考をするのかという失望感であった。この人達は50年前の自分が知らない過去に責任を感じる気があるのなら、自分の世代が関与する50年後の世界に対し感ずべき責任のようなものはないのだろうか?  
 後に、あの時代のエチオピアやソマリアでの出来事について、イタリアの若者達の反応を確かめた。思った通り、すでに歴史上の出来事あるいは、まるで今のイタリア人とは関係ない他人事のような客観的な意見を言う。  
 いずれが良いのか私は知らない。たが日本人の密集群型特性は世代を越えても変わらないという事実は印象的だ。  
  
 その日の午後、事務所の自分の部屋で私は再びロ-マの夕暮れのホシムクドリの大群を思い始めた。