3.エコノミ-とエコロジ-

 15年程前、野鳥の会の仲間達と、北九州の遠賀川の河川敷の葦原で繁殖しているセッカやオオヨシキリの調査をしていた事がある。夏、ここで繁殖する彼等は冬はフィリピンや東南アジアに渡り棲しているようだ。私達は彼等の足にリングをつけ、その繁殖時の生態や渡りのル-トを知るための研究
をしていたのだ。何年か調査を続けた結果、幾つかのおもしろい事実の発見があった。中でも私の興味を引いたのはこのスズメ位の小さな鳥が海を渡り、次の年にこの河川敷の葦原の同じ場所に戻ってくるという事実であった。彼等が地球上のこんなピン・ポイントをどういう方法で覚え、地図も案内標識
もなく戻ってこれるのか不思議でならなかった。  
 動物にとって、生まれ育った場所は何か特別な意味があるのかも知れない。  
 こうして見ると、人間にとっても生まれ育った場所・故郷は、情緒以上の何かが在るのかも知れない。  
  
 ところで私にはそんな故郷がない。いや生まれた場所ははっきりしているのだが、故郷の風景が町ごとなくなってしまったのだ。私は北九州の折尾という町で生まれ育った。その町がほんの20年の間に一変してしまったのだ。  
 丸山という字名であった。折尾駅のプラット・ホ-ムから見ると文字通りの丸い美しい小山が見えたが今はない。丸山桜堂という美しい地名さえ無くなった。子供の頃、遊んだ、小川・田んぼ・ため池・どこまでも続いていた丘陵地帯のどの風景も、今や原型さえ残していない。かって正直なヨ-ロッパ人が言ったマッチ箱のような家々が、ただ息が詰まるように広がっているだけだ。これは私の美しかった故郷では断じてない。故郷の駅に久しぶりに降り立って深い失望に駈られた。例の駅前だけ体裁を整えたハリボテ文化。私の故郷はそれなりの気品があった。故郷の風景は変わってもいい、美しくなるのであれば・・・。  
  
 現在の海外駐在員の生活は、正直ベ-スで良いこと半分、悪いこと半分である。ここロ-マに家族で住んで一番良かったことは、子供達に故郷の風景を与えられた事ではなかろうか。私の故郷の原風景は地上から完全に消えてしまったが、3才と5才で来てもう7年以上も子供達が住むこのロ-マの風景が変わってしまう事はないはずだし、時々、遊びに出掛ける郊外のどの町や村もその姿が大きく変貌するような事はありえない。自分が育った風景が、どこかに残っている事は心の財産であると、私は思う。日本のように国のあちこちで町の風景が日々変貌してゆく国を、ヨ-ロッパでは見たことがない。  
 もしかして、日本の経済や日本人の考え方に何か、間違いや欠陥があるのではないかとマジメに考えている。  
  
 ロ-マの中にいると気づかないがロ-マを一歩外に出ると、この国の歴史の重みが実感できる。その歴史の重みとは国全体、ここに住んできた人々全体に及ぶ知恵と力の集積されたものだ。日本に歴史はあってもそんな全体に及ぶ重みはない。  
 例えば、イタリアの地方の町の殆どが数百年、千数百年の歴史を持つが、重要なのは町そのものが歴史の時間だけ続いてきたという点である。公共の建物も道路も橋も城壁もそして民家も、ここに住む人達は歴史の時間だけ使い続けてきた。そこには使い捨てやその場しのぎのインスタントという概念はない。歴史を通してそれぞれの世代が生産した富は確実に蓄積されて後の世代にストックされてきた。  
  
 かつてナポリの会社にコンサルタントの仕事で来ていた時、相手の会社の同レベルの立場にある友人と給与の比較をした事がある。日本の平均的なサラリ-マンの私と彼の年間所得を較べてみて、日本人の所得水準の高さに我ながら驚いた。更にこの国の所得税・年金・保険等も高く、彼の可処分収入額を知って、正直、同情の気持ちを持ったものだ。  
 だがある日、彼の家に夕食に招かれた時に私は分からなくなってきた。あの収入の彼が、どうしてこんな立派な家に住み、こんなにも優雅な生活ができるのかと・・。聞けば、別荘も持っているという。そして、その会社の工場で所得が一番低い職種の人でさえ、大きな家に住み、夏のバカンスには1ヵ月別荘を借りて家族で過ごすという事も知った。所得格差が日本に較べて格段に大きいこの国に於いて・・である。彼等は親の遺産を貰ったとか、特別な金持ちでもない普通の人らしい。  
 私は何か、騙されているような気になった。私は彼と給与を比較し、チラと日本人としての誇りのようなモノを感じた。今や、GNP世界一の日本の
人間として・・・・。そして自分なりに良く考えて、自分の浅はかさを思い知った。  
  
 GNPとはGrossNationalProduct、即ち国民総生産額である。その生産を担う国民が生活してゆくのに消費が必要だ。この国民総消費を仮にGNC(GrossNationalConsumption)と呼ぶと、国民の本当の豊かさはGNP-GNCの差分でしかない。つまり、GNPがいかに高くても、GNP相応に国民の所得がいかに高かろうと、日本のように消費が高く、何事にも金がかかる国では本当に豊かな生活はできない。消費額が高いというのは、必ずしも物価の高さだけを意味するのではない。日本国民の経済システムを全体的にみた時の効率の悪さがあるのであろう。大きく馬力はあるが、やたらに燃費の悪いエンジンのようなもののようにも思える。  
 こう表現すれば奇異に思えるかも知れない。だが個別の生産活動や経済活動の効率は今や世界一であるかも知れないが、生産→消費のサイクル全体を国民的に総合してみた時に何かのまずさがあるようだ。  
  
 数百年も続いてきたイタリアの地方都市では、例えば家屋も数百年間使用してきた。それらの家屋は石という劣化しない素材で造られている。少なくとも家の荷重が懸かる部分にはそんな素材・石が使われている。だから彼等は何世代もの間、それを使用し続ける事ができる。  
 つまり彼等のとって家は数世代に一度の投資で済む。これに対し、日本人は家を木で造る。家の寿命は素材の寿命だ。せいぜい一世代しかもたない。その上、高価だ。さらに現在の日本人の家には熱帯材を大量に使う。  
 平均的な日本人が生涯収入の大半を費やし、世代ごとに建て替える日本の家、あげくの果てに熱帯林を切り尽くすと・・・とみると、フランスの首相クレッソン女史が「シロアリのような日本人」と表現するのも案外、外れてはいないのかも知れない。  
 日本の経済の全体システムが時代の環境変化に追随していない部分も多かろう。例えば、日本の住宅政策はGNPが世界一になった現在でも、一世代限りのマッチ箱的家屋を奨励しているようだ。数世代の使用に耐える大型の堅固な家屋を建てようものなら、国を挙げて叩かれる。ひたすらに貧困型のライフ・スタイルを美徳とする国民性なのかも知れない。  
  
 かってロ-マの時代、かの暴君ネロでさえロ-マの大火の後、長期的視野にたった都市計画を実施させた。そこでは耐久・耐火素材での家屋建設が奨励・指導されたという。今もイタリア各地で町ごと使用されている家屋は、そんな歴史の遺産、視野が広い民族の知恵の遺産である。  
  
 今。GNP世界一と言われ、世界一の金持ちのつもりの日本であるが、芸術・文化だけでなく経済の面でも、にわか成り金では視野に限界があるのかも知れない。  
 このイタリアやヨ-ロッパ型の「ストックの経済」に対し、日本人型のこの経済のスタイルを「フロ-の経済」と称する人がいるようだ。フロ-の経
済とは、どうやら消費を回転させて経済を活性化するというものらしい。例えば、車もカメラも次々にモデル・チェンジする、ファッションもライフ・スタイルも次々に新しい流行を創る。その事で消費も生産も増え経済が活性化し、成長してゆくという考えである。実際、一世代限りの家屋に限らず、日本人は既に多くの面でそうしている。つまり、使い捨ての経済である。  
 個々の製品をいかに省資源・省エネ・省コストの工程で生産しようと、その製品の寿命・有効期間が短かければ期間的視野でみた全体の資源・エネルギ-・コストの効率は悪い。  
 経済の発展だけが人間社会の目的函数ではないし、「フロ-の経済」の考え方は資源やエネルギ-を有効に利用するという観点からは何処かに誤りがあるように思われる。少なくとも、自然界の生産・消費の生態システムの中には類似のパタ-ンを見出す事はできない。  
  
 この経済のスタイルは、部分最適型でありホシムクドリ型の日本人社会の群特性には合いそうだ。だがこれを続けると日本人は永久にラット・レ-ス(二十日ネズミの水車回し)を続ける事になり、日本人の貧困趣味だけでは済みそうにない。本当に地球の資源を食い荒らすシロアリになりかねない。  
 強い通貨「円」の力にまかせた使い捨て経済。国外から安く資源を買って来れば、修理するより・手入れするより新しく買い換えた方が安上がりになる。物を回転させる方が生産者も消費者も互いにハッピ-になるというフロ-の経済思想は時間的にも空間的にも限定された範囲でしか世界を捉えていない経済ではあるまいか。資源の価値を生かす資源の経済性や資源の本質を省みない経済は国外の資源までも浪費して、世界を蝕む結果になるかも知れない。日本はむしろ「円」が強い間に、ストックを持つこと、何世代にわたり日本人が使用し続ける事ができる資産を国も国民も持てるような状況を作る事が今、一番重要ではなかろうか。  
 大きく馬力があるがやたらに燃費が悪い日本人のエンジンをいつまでも使い続ければ、有限の資源も浪費するし、環境も汚染し続けることになるのだ。  
  
 個別の分野では勝っても全体まとめて見ると何か損をしている日本人の経済は、戦術で勝って戦略で負ける戦争のようなもので、これを続ける事で誰も幸せにはなれない。  
 この日本人のフロ-型の経済思想は’LaFantagiadiRAPACI’の神話からの基本提言には、最もそぐわない。また全体的視点からも長い目で見た期間的な視点からもエコノミカルではあり得ないと思う。少なくとも自然界のエコロジ-・生態システムには、このような消費ロス漸増型の例は見当たらない。神話の提言に立って将来を考える時、経済において現代世界の指導的位置にいる日本人の経済指向性を転換できる刺激となる機会を、先ず創る必要があろう。またその結果を、世界全体に及ぶような工夫も必要である。  
  
 さて、そこで何をどうすればよいか?  

 日本人向けバ-ジョンとして項目をまとめてみると、以下の様なものではなかろうか。

①:先ず日本人の経済構造をフロ-型からストック型に変える。  
(これを日本経済のニュ-デイル政策としたらどうだろう?)  
・国家・社会の諸制度、組織・機構の「適応」型への改革研究。  
・生産と消費をストック型にするための、技術的研究。  
*諸資源ライフ(有効寿命)を長持ちさせる政策と技術の確立。  
*人間と社会機能を長視点的、広視野的にみた設計。  
  
②:諸消費資源の完全リサイクル(食糧・燃料などの直接消費資源)  
・生ゴミや廃熱などの回収再利用技術の確立。  
・環境汚染防止技術の確立。  
  
③:地球表面の利用効率の革新的向上  
(ストック型経済・ストック型技術との組み合わせで・・)  
・地上空間、地下空間の利用技術の革新  
  
④:人間が依然として成長できる余地の創造  
・以上の組合せの下で、人間の基本的欲求を確保するための技術や文化の研究と方法論の確立。  
  
以上の基本を基に、神話の提言を何か具体的な事例として考えてみたい。  
  
 地球上で人口が一番集中する都市問題、その中でも人間の居住空間を例を想定してみる。想定する都市部でも人間が使用できる地表は限定された面積だとする。しかしながら、人口は増え続ける一方、また人間は常により広い空間を求め続ける。そんな状況で、例えば200年は使用に耐え、しかも住む人の増え続ける欲求にも答えられる居住空間・建築物を考えなければならない。先ず、地域の姿の少なくとも200年先を想定した長期的・広範囲的視点からの都市設計を行う。どんな地方の宅地開発にもこんな考え方は重要だ。次に地表面積に対する居住空間の効率を上げる技術を研究する。その為には地下に潜るか地上に伸びるしかない。夢の超高層建築を考えるのではなく、現在の技術の延長で可能な範囲の高層建築技術と土木技術、および素材技術・加工技術などの組合せから可能な限り大きな空間の確保と、質的にも可能な限り長期間の使用に耐える堅固な構築物を造る。面積に対する効率を上げられた分、周辺に緑地や自然を確保できる。美しい景観の創造こそ重要だ。  
  
 構築物内から出る廃棄物の内、生ゴミや排泄物(糞尿など)の有機物系の資源を極力、建物の系内で肥料や飼料としてリサイクルし、同じ建物系内に造った人工生態系に応用する。そこで野菜などの再生産が可能ならば理想的である。  
 電気・ガス・水その他のエネルギ-のリサイクル、自然エネルギ-の活用も当然である。  
 また構築物が、多様化してゆく人間の欲求を満たすための空間設計がなされていなければならない。そのためには、設計においてデザイナ-は元より芸術文化・心理学・人間工学などの専門的知見が反映されている必要がある。  
 人間が一定の枠の中でも喜々として生きてゆくためには、生の人間感覚に基づいた生き方を人々が考え行動できる空間が必要な筈である。  
  
 このような目的のために、関係する分野の人々でサロンを作り、一同に会すれば分散されていた科学や技術の統合で、新たな可能性もありそうだ。例えば、それぞれの関連技術者は自分の分野の最適解としての技術を提供し合うのではなく、他分野技術との協業・組合せで新たな技術や可能性を開拓してゆくことが期待できる。
  
  
 木村由実子はデザイナ-として、「狭空間デザイン」というコンセプトを提唱して作品を発表している。これは仮に空間が一定でも現代の生活では、空間内に収容する機能(電気生活機器・娯楽機器・什器・装飾etc.)が増え続け、美しいゆとりのある空間そのものが失われて狭くなってゆく。だから個々の機能を設計デザインする段階から、空間そのものをいかに創り出すかという視点から、いくつかのID作品を提案している。この過程で、彼女はもし他の分野の技術者や専門家と協業できたなら、より大きな可能性が期待できるとの印象を得ている。  
  
 仮にこのような視点から実際に、日本の都市計画や住宅政策を展開できたら日本人も経済を演繹的に考える事ができ、次の世代ではヨ-ロッパ並の足が地に着いた本物の文化や生活を享受でき、また世界の人類に対して本質的な貢献も可能になるのではないかと考える。  
  
 故郷の変わらぬ風景は誰にでもある方がいい。それも美しい方がいい。ロ-マの時代や中世から残る本質を得た建造物は、美しいし頑丈だ。現代の科学・技術と現代人のセンスと知恵で、それが出来ない筈はない。出来ていないとすれば、どこかに間違いか誰かのエゴのようなものがあるのかも知れない。だが日本人の皆が皆、目先の金と安っぽいその場限りの便利さを追っている訳でもあるまい。  
 現代に生きる私達が消費する地球の資源を、私達の世代の無駄食いで浪費せず、美しい資産としてストックして残すことができれば人類の繁栄が地球を蝕む事もなかろう。そして、世代毎にストックを残し、世代が進む度にストックが増え続けるように私達の科学や技術、あるいは文化を導いてゆく事が地球生態系の一翼にニッチを与えられたヒト科動物の義務ではなかろうか。  
 自然界のエコロジ-・システムは世代が代わっても前後の環境の収支は変わらぬものだ。今、私達の世代のエコノミ-・システムが破壊と汚染しか残せないとしたらこの時代に日本人として生まれ合わせた事が悲しい。せめて前の世代に較べて増やした消費くらいは、浪費せずストックとして残せるような経済システムに正すべきではないか。  
  
 遠賀川の葦原に毎年、セッカやオオヨシキリが戻って来るように、いつまでも変わらない故郷の風景を創って残してゆくことを「神話」は告げている。