2.動作の文化

 私は自然や野鳥の写真を撮っている。野鳥の中でも猛禽が好きで、その飛んでいる姿だけをもう20年以上撮り続けている。猛禽といってもトビではない。ワシ・タカ・ハヤブサである。同じワシでも魚や死んだ動物などを食べているオジロワシやオオワシなどのウミワシ(Sea-Eagle or Fish-Eagle)類にはほとんど興味はない。高山・深山で生きた動物や大型の鳥を獲物として悠然と生きるゴ-ルデン・イ-グル(Golden-Eagle)類の方に私はひかれてしまう。  
 ゴ-ルデン・イ-グル、成鳥だと頭部が金色に輝くこの高貴で精悍な鷲を日本ではイヌワシと呼ぶが、この言葉の響きが好きではないし私がこれを見てきたのが殆どヨ-ロッパだったので、あえてそう呼ぶ事にしている。人は勝手なもので好きなものには相手がモノであろうと動物であろうと人間基準の人格や個性まで見てしまう。  
  
 と言うわけで、私もウミワシとゴ-ルデン・イ-グルを見つめているうちに、彼等の生態や行動をつぶさに見比べてゴ-ルデン・イ-グルの方が、ズーッと優雅で品格があるように思えてきた。この事は犬好きな人が犬を見れば、猫好きの人が猫を見れば分かると思う。同じ犬でも、上品な犬と気品のない犬はいるはずで、それも外観・容姿のせいではないはずだ。物腰・身のこなし、姿勢・目の位置・目の動き・立ち振る舞いなど、ちょっとした動作・仕種のどこかに差があるはずだ。
  
 どうやら、優雅さにも条件・原理があるらしい。  
 犬や猫の動き・たたずまいを見て上品かそうでないかを感ずるのと同じ原理が人間にも当てはまるのではないかと思う。だが人間の場合それぞれが属する社会により、動作や仕種に対する印象は異なるようだ。ここで言う「動作や仕種」の範囲は、人の行動とまではいかないがいわゆるマナ-・作法の範囲は越えた概念である。ヨ-ロッパ人が報道マンガやアニメ、さらには文学やオペラ”マダム・バタフライ”などの中で日本人を象徴的に表現する時にしばしば顕されているよな動作や仕種である。  
 例えば、日本人は一般にヨ-ロッパの人達に較べ手足・頭など身体の動きが速すぎて、コセコセ・チョロチョロと落ちつきのない印象に見えるらしい。勿論、動作が遅すぎればノロマに見えてしまうし優雅さを表現できる調和点を見いだすまでには、それなりの意識と場数を踏む必要があるのかも知れない。  
  
 また目の動き・顔の動きは日本人にとってはもっと重要なはずである。多くの日本人の大きな誤解にゼスチャ-がある。かなり昔の一時期に外人なれした人達の間で流行ったようだが、これはどうやら優雅なものでないようだ。イタリア人は手でしゃべると人は言う。イタリア人はゼスチャ-なしにはしゃべれない。彼等が話をしているあらゆる場所で手は絶え間なく動き続けている。ある人はゆるやかに輪をえがくように、またある人は上下に運動しもう一方の手を添えてアクセントをつけるかのごとく揺れ動き時折ピタリと止まる。議論の加熱度につれて手の動きも速まってゆく。  
 さらに議論が沸騰しその激情表現に言葉と手だけで足りなくなると、言葉は叫びとなり激しい動きは身体全部に及ぶ。状況がこの段階にくるともはや手のほどこしよういがなくなる。すでに議論ではなく身体器官の全てを動員してただ互いの激情を叩きつけ合ってるだけだ。両者の動きは相互に刺激し合いコ-フン度は益々高まってゆく。ほとんど喧嘩。この意味なし口論を停めるには何はともあれ身体の動きを停めことだ。仲裁者たちは言葉で説得する前に彼等の身体をハガイ締めでガッシと停める。   
 身体の動きさえ止めてしまえば口の動きは自動的に半減する。こんな光景を何度も見てきた。一団の子供達の中で、朝市のオバサン達の間で、公園の老人達の中で。  
 この国の中ではゼスチャ-は文化の域に達しているもある。同じ情意を表現するのに人によって手の動き・カタチは異なる。ある人はなめらかに連続的に、またある者は直線的に断続的に、そこには人それぞれの個性なり人格が現れているようだ。またこの国のゼスチャ-にはある共通言語的な手の動き・形があってそれは特定の意味さえ持っている。まるで手話だ。それも地方によって違いがある。まるで方言だ。これほど動作の文化が発達した背景・理由もそれなりにあり得よう。いつかこれも生態学的に見ればおもしろい発見があるかも知れぬ。
  
  
 さてこのイタリア人のゼスチャ-も、Dr. ソアルドや Ms.フランチェスカがやっているのを見たことがない。いつも自然のままのエレガンスを感じさせてくれる彼等はさる地方の伝統的な上階層社会の人達だ。彼等と知り合って Lady や Gentlemanの条件が、文字通り「静か」であることを知った。不自然な身体の動き、手や頭・視線の過激な動き、大きな声、おおげさな情緒表現・・等々はあらゆる対象で優雅さの条件に反しそうだ。もちろんそれだけではない。他にもいろいろありそうだ。  
  
 人間や動物の要素動作をつぶさに分析し、例えばそれと「優雅さ」との関係を系統的に解析・評価した学問・科学はまだないようだ。だけど例えばオシャレという観点からだけで見ても、ファッション・デザインと同等の価値くらいはありそうなので、そのうち科学か芸術かどこかのジャンルで何か一つは出来そうだ。  
  
 気品や優雅さなどとは縁遠い世界にそめなじんできた私なんかが、いまさら何をと思ってみても会社や日本人のカンバン担いでやっている立場上、それなりの体は保たねばならない。そこで研鑽して分かったことは、「自分の動作にそれらしい風情を保つのに、何よりもかによりも大切なことは、疲れていないこと」・・・・である。人間、とかく慣れないことをすると疲れるものだ。疲れるとついつい本性も露してしまう。だからこそ自分の姿勢や動作を気を配れる程度の心のゆとり、体力のゆとりが必要だ。とにかく日本人は忙しすぎる。  
  
・・・などと気遣いしても、しょせん身に染みついたマナ-でないからすぐに正体ばらしてしまう。朝市で釣り銭ごまかしのオジサンとついついやり合ってしまう。彼より大声はりあげ彼より大きなゼスチャ-で、おまけに歯を剥き出して渡り合う。釣り銭ごまかしても子猫のようにおとなしいはずの日本人が突然これを始めると効果テキメンである。たいてい勝負は2~3分でつく。気の毒なのは一緒の家族。「パパ、恥ずかしいから止めてヨ~」と言いつつ距離を置く。だけどここで生き抜くためには、そう簡単には引けぬ。”郷”に入らば、”郷”のマナ-に従わなくては!  
いや、それより”Do more than Romans Do ! “でなくては。なにしろここは、ロ-マだから。