2.ムクドリと日本人 (内的特性その1:感性)

 ロ-マ、フィレンツェ、ミラノこの国はどこに行っても美術館にはこと欠かない。それも世界的にも歴史的にもピカイチの作品揃いだ。  
 夏のバカンス時には、ヨ-ロッパに駐在する日本人が増えたせいか、その中で名の知れた美術館では子供づれの日本人家族も多く見られるようになってきた。そんな日本人家族が美術館で決まって交わす会話がある。  
  
 子供「パパこの絵、有名?」  
 パパ「ウ-ン・・・・ちょっと待てよ」  
 パパ:そこで絵に近づいて額の下に付いている説明プレ-トをしげしげと読む。次にガイド・ブックをめくって説明ともういちど見くらべてうなずく。で、元気のよい口調で  
 パパ「うん、これはジオットの有名な絵だ」  
 家族一同:そこで有りがたそうにしげしげと絵をながめる。  
  
 一般に日本人が美術館に行く動機がヨ-ロッパ人とは明らかに異なることは、そこでの行動を見れば理解できる。ゆっくりと作品を楽しんでいる人など、ほとんどいない。子供の頃に美術の教科書かなにかで見た彫刻や絵画の前ではやたらに集まったり記念写真を撮りたがったりするくせに、その他の作品の前はほとんど素通りである。  
  
 日本から派遣されている駐在員は業種・ポストに関わりなく、日本からの来客のアテンドをして観光案内や美術館の案内などせねばならぬ事が多い。何度かやるうちに、それまで歴史や美術に興味も関心も無かった人達がいつの間にかいっぱしの歴史解説者・美術解説者になってしまうから不思議である。  
  
 美術館で「この作品はボッティチェッリの××頃の代表的な作品で、ホラあの女性の髪や指先の表現を見て下さい!あのフォルムの優美さバックの色彩とのバランス感の見事さ、いかなる現代絵画の中でもこの感覚は見いだせません」・・・・などと、毎回おなじセリフを繰り返す。  
 かくして、感覚も情操も「覚えてしまう」知識の問題に転化される。思い出してみると日本の美術教育もこんなモノだった。美術の試験の点を取るために、ラッファエッロの絵画についての美を一生懸命の覚えた。こうして「美」についての正しい解答というものがでてくる。  
  
 日本人の情操感・感性はもしかして、感覚ではなく知識のカタチで成立しているのではなかろうか。美術だけでなくファッションも工業デザインも芸術に近いジャンルは全て・・・・・。そうして「美」に対する共通の理解・共通の認識を持ち合うことで、日本人は感性や情操の面でも「共通指向」「均一化指向」になっている。だから日本のオネ-サン達のファッションも自らの感性で選ぶのではなく、時代感覚の正しい答え・「流行」の本流がどこにあるのかを知識として知って選ぶ事になる。  
  
 でも当代の日本人なら、美術館のパパもアテンド専門の駐在員も流行を追うオネ-サン達もこれを恥じることはない。当代の日本人の感性はこんなものだ。後に知り合ったイタリアのさる美術評論家が、こんな話を聞かせてくれた。  
 「日本のある有名美術館の学芸員がイタリアの現代美術展にやってきた。  
 彼は画商でもないのに、作品を十分鑑賞する前にしきりに作家や作品の評価、時には値段まで聞きたがる。日本人は芸術を知識や金で観るのかネ。  
 抽象美術となると、ことさら熱心に聞きメモをとる。日本の美術館では、”裸の王様ごっこ”でもやっているとしか私には思えないネ」美術館の学芸員にもこんな方がいらっしゃる。  
  
 人間の精神作用のうち感性は最も文化度と関係深そうだ。日本人が美や芸術に接するゆとりを持てるようになってそう時間が経っていない。お金ができても本物の文化が成熟するまでには一定の時間が必要なのかも知れない。