12.CostaVolpino:子狐の湖岸

ミラノから東にヴェネチア方向へ高速道路に入る。ブレッシア-を一つ過ぎた所で高速道路を出て北側に向かう。ロンバルディアの大平原から山あいに入り、だんだんアルプスの前哨線のように谷は切り立ち、辺りの山の風景も荒々しくなる。これが日本だと、どの谷間をとっても○×渓谷とか△渓と名がつけられていることだろう。  
 やがて谷あいの細長い湖が見えてくる。その湖畔のLagoCostaVolpino(さしずめ子狐の湖岸とでも訳せる)に仕事でしばしばやって来た。この周辺は昔から谷筋の水量と落差を利用した水力発電を活用した工業が発達している。途中のグルグル廻りの道路には閉口だが大自然の中のこの町は、出張先としてはお気に入りの場所である。  
  
 仕事の関係で日本から専門の技術者を派遣してもらい、同行する事も多い。何度も同じ人物が来ることもあり、駐在も長くなれば彼等が持ってきてくれる日本の情報は本当に有益である。  
 ある時そんな一人と、この町のそれなりのレストランで昼食をとっていた。この時も彼は仕事の情報だけでなく、社会・生活の情報もたくさん持って来てくれた。この地の名物料理などを注文し、食前酒などを飲みながらそんな話を聞いていた時だった。  
 彼は急に私の方に身を寄せて、声のト-ンをひそめて話し始めた。例のあのヒソヒソ話のスタイルだ。こんなイタリアの田舎では、例え大声をはりあげて話したとしても私達の会話の機密は十分に保たれている筈だ。誰も日本語など理解する人はいないのだ。だが彼はそのスタイルをとり続けた。  
 声をひそめて彼は言う。  
 「ところで、君はもう墓を買ったか?」  
 私:「オ・ハ・カ・?」  
 多分、私はスットンキョウな声をはりあげたのだと思う。周りのイタリア人達が、この不思議な雰囲気で話を続ける東洋人をひそやかに振り返った。  
 その視線に彼は姿勢を正し、私は彼等に軽くウインクしてやった。  
  
 彼が私に言ってくれることはこうだ。日本では今、全ての不動産が値上がりしている。今やお墓もそうだと言う。まだ持っていないのなら、買うのは
今のうちだと忠告してくれているのだ。  
  
 お墓どころか、私は生きた身を納めるマイホ-ムさえまだ持たぬ。それに私は自分の死については遠の昔から決めている事がある。かって、ペル-ジアでもラルフやマ-クにも語ったし、事務所の秘書のアドリア-ナにも語ったことがある。  
 私は、生まれてきた時と同じように「死」も自分の意思や努力や経験とは関係なく、これも運命か神の意思かは知らないが、偶然にやってくるものだと思っている。やがていつかは、私も死ぬ。他の全ての人達と同じように、これまで生きてきた全ての生き物と同じように・・・。そうして見ると自分
の死だけが特別のものではない。できることなら自然に死にたい。  
 「お墓もいらないし、葬儀も法事もいらない。やって欲しくないと考えている」と私は言った。「とりわけ日本では・・・・」と私は続けた。私は、人が死んだ後の日本のあの制度が気に入らぬ。  
 例えば、私が死ぬ。誰かが葬儀屋さんとお寺様に連絡する。今では電話一本ですぐさまやって来てくれる。便利な時代になった。確かに慣れない状況にオロオロしていたのでは、家族か友人か周りの人はゆっくり情緒に浸ってはおれぬ。それに死体処理には手間がかかるし面倒だ。そこは専門家に任せた方がよいのかも知れない。 
   
 だが何故だか、どこかが気に入らぬ。このところのお寺様、ほとんど仏教ではないのではないだろうか。勿論、宗派にもよろうが・・・。もともと人の生き方、生きた人間の心を救ってくれるのが仏の教えではなかったのか。生きた人間も救えはしない経文が死んだ人間の魂をなぐさめられる筈がない。  
 確かに何度か説法も聞いた。だがそれはいつも葬儀か法事か、人の死と離れてカラリとしたカタチで聞いた事がない。  
 もしかして、そんな事は時代に合わぬと申されるかもしれぬ。だが昔、辻説法から始めた宗祖様もいたし、その時代時代の変化に合ったやり方で、その時代に合った内容で、人や社会を救ってきたではありませんか。それとも今風に何でもお金の時代だ、そんな事してもお金にならぬと、死
人産業に葬儀屋ともども徹した方が利口か・・・・。聞けば、戒名にも価格があるとか、葬式も「さて、ご予算は?」と商談しだいで松竹梅か上中下か
いろいろメニュ-があるとのこと。そのうち、この需要が消えないマ-ケットにも過当競争の波が押し寄せ、今に葬儀屋さんとお坊様がコングロマリッドでも形成し、市場原理に従ったマ-ケットの取り合いでもやりはじめるゾ。死体の奪い合いだ!  
  
「悪い事をすると、死んだ時に地獄に落ちて・・・・」と、幼いころ母が地獄の餓鬼の話をしてくれた。死体を貪り喰らうその情景を何故か思い出してしまう。ゴネンナサイ、葬儀屋さん!その道ご専門のお坊様!  
  
 私は葬式も法要も要らないのです。  
  
 お墓も要らない。できれば火葬も要らない。自然から授かったこの肉体は、できる事なら有機物のまま、自然にお返しするのが本筋だろう。太陽・水・空気・自然の恵みで合成された有機物を、更に化石燃料を浪費しCO2を放出してまで、焼却分解する事もなかろう。海に返し魚や貝やプランクトンの、森に返し植物や昆虫や鳥たちの、少しは為になれたらと思う。  
 とはいえ今や自然は広くはないし、腐った私の肉体が不潔では他人に迷惑をかける。だから、火葬だけはお願いしましょう。  
 お墓は要らない。死んだ後までコストはかけたくない。骨片か灰は海か山か、あるいは風の強い日に空にでも放って頂きたい。  
  
 霊魂は在るのだという説がある。確かに時間の流れをたゆとう肉体の笹舟が沈んだ時、笹舟については質量不変の法則で火葬の前後の物質的な辻褄は合う。だが、その笹舟に乗っていた自我の意識・魂は物理の問題では解けぬ。  
 自分の霊魂も、消えてしまうより残った方が楽しい。  
 だがあの狭い墓石の中はイヤじゃ!死んだ後くらいは、海になりたい、山を駆けたい、空を飛びたい。秘書のアドリア-ナにこんな話をしたら、私に問うた。「では、インジエネ-レ、もし貴方の子供達が貴方に会いたい時は、どこに行けばいいの?フェリ・ネッリの日(つまり日本のうら盆だが)には、どこに行けば貴方に会えるの?」  
 私はすかさず答えた。  
 「私はあの青い空だ!あの空をゆく白い雲だ!」  
 カッコイイはずなのだが・・・・・・。  
  
 せめて死ぬ前くらいはカッコよくやりたい。だから死ぬ前に痴呆症や植物人間だけはゴカンベン願いたい。そこにこの私としての自我・意識がなけ
ば、残った肉体が例え生きていたとしても、それは私ではない。私(という自我)にとって、私の名誉にとって、本来の私とは違う意識が私の肉体を辱めるなど、とても許しがたい。そうなれば私の肉体をできるだけ早く抹殺してもらう事を要求する権利を私(という自我)は有すると信じる。  
 また死を前にして痛みや苦しみで、ノタウチ回らなければならない状況になったとすれば、これもゴヨウシャ願いたい。せっかくの現代医学・薬学だ。  
 願わくば、安らかに安楽死させて頂きたいものだ。自分の尊厳(?)を捨ててまで一分でも長く生きようなど、決して思わないから。  
 それともここでも又、すぐにでも死なれたら困る業界でもあるというのか?  
 あるとすれば彼等こそ鬼だ!人一人のライフ・コスト:地球の有限資源を浪費させる人類の敵だ!  
 時代の環境は変化している。  
  
 これは、私の遺言でもある。  
  
 彼の好意の墓場の相場の話から、昼食のあいだ、ず-っとこんな話に終始した。だが誓って言うが、話は極めてドライであった  
  
 レストランを出た。  
 むこうの岩峰から湧き上がった雲が、この谷あいの空にポツンポツンと浮いている。澄んだ青い空だ。  
 あの日、ペル-ジアでラルフとマ-クにこんな話をした時にも、こんな白い雲が浮かんでいたっけ。