第Ⅰ章:ちがいが分かる男  1.ロ-マの外人分類学

1.ロ-マの外人分類学  
  
 ロ-マの朝夕の交通ラッシュにはすざましいものがある。ただ車が多いというだけの事ではない。とりわけ交差点ではある種の力の支配がある。前後左右の状況、他の車にはおおむね関心は払われない。皆ひたすらに自分が進みたい方向だけを見ているようだ。右のウインカ-のまま左折する車、一番左側の車線から強引に右折する車、あきらかに信号は赤であっても・あきらかに交差車線をブロックすると分かっていても進入する車、ここでは強い者が勝つのである。ここの人達に鈴木健二の「気配りのススメ」を読ませたらどんな反応を示すのだろう。   
  
 中でも抜きんでてすざましいのはイタリア・オネ-サン、イタリア・オバサン達の一群である。彼女達が左右や後方の確認をはなから放棄しているのは明確だ。なぜならそのバック・ミラ-、ル-ム・ミラ-はたいてい自分の方向をむいている。どんなラッシュの中でも彼女等は目の前の隙間に向かって果敢に車をダッシュさせるだけだ。またなぜだか、彼女等の三人に一人は火がついていないタバコを口先にチョコンとくわえて運転している。これがどんな意味をもつのか、またどんな作用に供しているのか何年たってもナゾのままだ。   
  
 信号が無いロ-タリ-交差点などではこうした車が押し詰まり、まるでギッシ・ギッシと音をたてているようだ。日本の神輿かつぎのように押し合いへし合いしながらロ-タリ-自体が文字通り重々しく回っているようである。  
  
 交通に限らずこの国では万事が似たようなものだ。規律と節度の中で生きてきたドイツ人やイギリス人それに一般の日本人は、こんな状況に何年経ってもなじまない人が多いらしい。これらの外国人の反応・身の処し方は概して次の三つのタイプに分類できるようだ。  
  
(カテゴリ-・1)   
  
 悪いイタリア人の心を直してあげよう・・・・と敢然と立ち向かうタイプの人々である。事あるごとに進み出て厳重に抗議する。くる日もくる日も同じ事を繰り返し続けて、やがてむなしさを覚える事になる。ドイツ人やイギリス人がこのむなしさをどのように表現するかはまだ見たことがない。だが何人かの日本人が失望と落胆に打ちひしがれているのを何度か見た事がある。かれらは巨大な文化の流れに素手で対処しているようにも思える。   
  
  
(カテゴリ-・2)   
  
 ただただ毎日、呪いながら生きているタイプの人々である。彼らは火の無いタバコをポコンと口先にくわえたイタリア・オバサン達を横目で見て、窓を開けて抗議する訳でもなくこぶしを振り回す訳でもなくただ車の中でバカとかセッソウナシとか一人ブツブツと口走っている。このタイプの人はイタリア語が不自由とか単に自己顕示に自信がないという事情の人々が多いが、カテゴリ-・1からの転向者も多いようである。外からのリアクションに影響されない自己完結型の反応であるため、この性格は比較的長い期間保持され駐在員ならば任期あけまでこうした生き方で過ごす人も少くない。だがこのタイプの日本人の多くは、帰任時成田のゲ-トを通過と同時に全ての悪い思い出は帳消しになり、瞬間的にイタリア・フアンに転向するとの事である。   
  
  
(カテゴリ-・3)   
  
 その土地に生まれ育った人でないかぎり、人はその地の人になりきれないという説がある。これは人間に限った事ではないらしい。生まれ育った環境でインプリンティングされた動物の行動習慣はそう単純には変わりはしないという事らしい。そこで外人としてロ-マに来た者がこの環境に適応して生きようとする場合、ガイジンとしての自己を維持しながら、あえて意識的に”Do as Romans Do ! ”をやるのである。要は「連中もやっとるからオレもやったるか!」というような事になるらしい。これがカテゴリ-・3に属する一群である。   
  
  
  こうして何年もイタリアにいると、この土地の自分がやりたい習慣だけを身につけるようになる。かくしてイタリア人の悪いところと日本人の悪いところだけが遺伝したような人間も中にはできあがる。勿論、全く逆の例もある。おもしろい事実は、双方ともにその事に全く気づいてはいないということである。だから時には”オレももしかしてハヅカしいテイを晒しているのではないか・・”と自分を省みる習慣を持つ必要があろう。   
  
 自分自身はいずれのカテゴリ-に属しているのか? 省みればどうやら自分は未熟者らしく自らの基準さえも定らず、あちこちのカテゴリ-をさまよっているらしい。ある時は意気消沈し、又ある時は悪態をついたりステゼリフを残して自分のウサを晴らしたりする。たまたま友人や家族が一緒だと彼等にはずかしい思いをさせたり、後で自分がはずかしさに沈み込んでしまうハメにもなる。とりわけまだ小学校低学年の我が子から「パパまたやってしまいましたね!」と冷静にさとされたりするともう逃げ場もない。   
  
 異文化の中で生きてゆくのはそれなりの苦労がある。人は文化なり環境なりに慣れるのか慣らされるのか、それまでとは違った状況に曝されてみると一体どれが本物なのか何が真実なのか分からなくなってしまうものらしい。
 とはいえ、今日を生きるのにどれか一つを無理にも選ばなければならない。
 こんなところに、矛盾や滑稽さがみえかくれする。自分の人生を大切に思うならどうにかして正しく物事を見る目を持つしかない。